2016年度特別コラム「物語を読む」

 

 

物語を読む@

小1国語「たぬきの糸車」

 

 

 

1928年、旧ソ連、ロシアの昔話研究家であるV・プロップという人が、『昔話の形態学』という著書で、全ての昔話には共通する構造、お決まりのパターンがあるという説を発表し、その構造を三十一の機能分類として整理しました。簡単に列挙してみると、@誰かの不在 A禁止 B禁止の侵犯 C敵による探り D情報の漏洩 E敵の奸計 F不本意な利敵行為 G敵からの加害、又は何かの欠落 H主人公への仲介 I反撃の始まり J主人公の出発 K贈与者の働きかけ Lそれに対する主人公の反応 M魔法・手段・助手の取得 N主人公の移動 O敵対者との闘争 P主人公が印を受ける Q勝利 R不幸または欠落の回復 S主人公の帰還 ㉑主人公が追跡される ㉒追跡者から救われる ㉓主人公が密かに到着 ㉔偽主人公の嘘の主張 ㉕難問 ㉖その解決 ㉗主人公が識別される ㉘偽者の発覚 ㉙主人公の変身 ㉚偽者や敵の処罰 ㉛主人公の結婚や即位 となります。

この@〜㉛の機能分類は、百話ほどのロシア民話から抽出されたものですが、全ての話が三十一の機能を揃えているのではなく、この中の幾つかでお話が出来ているということです。それは、世界中の神話・民話にも当てはまり、日本でも、まず『古事記』のヤマタノオロチ退治や、桃太郎、一寸法師などの英雄物語に当てはまりそうですし、限定的に言えば、浦島太郎やかぐや姫の物語などにも当てはまりそうです。『スターウォーズ』など、現代の小説・漫画・ドラマ・映画・ゲームにも、思い当たる部分が見つかりそうです。

小一国語教科書に出てくる『たぬきの糸車』は、「罠にかかった狸が、木こりのおかみさんに助けられた後、その不在中におかみさんの真似をして糸を紡ぎ、おかみさんに恩返しをする」というお話です。恩返し型物語の一つであるこのお話も、「狸がいたずらをする」にはABが、「おかみさんの真似をして狸が糸紡ぎの技術を得る」にはKLMが、「木こり夫婦が不在の冬に、狸が恩返しで糸を紡ぐ」には@やRが、「おかみさんに見つかって、狸が帰っていく」にはSが、当てはまるかもしれません。

人は、現実を物語にして理解する動物です。三十一に限られないとしても、物語に一定のパターンがあるということは、現実理解の仕方も同数のパターンに絞られるということです。より多くの物語を知らなければ、より多くの理解の型が身につかない。だから人は、物語を求めるのでしょう。

 

 

 

物語を読むA

小2国語「スーホの白い馬」

 

スーホの白い馬

 

小二国語教科書に出てくる『スーホの白い馬』は、「モンゴルの草原に住む貧しい羊飼いの少年スーホが、殿様の主催する競馬大会に優勝したものの、殿様は婿にするという約束は守らず、代わりに愛する白馬を奪い、その白馬がスーホのもとへ逃亡を企てた結果殺されてしまう」という悲しい物語です。スーホは死んだ白馬の骨や皮や筋や毛を使って楽器を作り、それが現代にまで残るモンゴルの馬頭琴になったという事で、この物語は道具の誕生譚になっています。

ロシア人V・プロップの『昔話の形態学』は、昔話に共通する構造を31の機能として分類しましたが、これを使って『スーホの白い馬』を分析してみるとどうなるでしょうか。

物語は、スーホが夜になっても家に帰ってこない、つまり機能@誰かの不在で始まります。スーホは持ち主も母馬もいない白い子馬を助けて連れ帰り、大事に育てるわけですが、祖母以外に家族のいない彼にとって白馬は、大事な身内であり、やがては羊を狼から守る強くて立派な駿馬になるので、これは機能M魔法・手段・助手の取得にあたります。幾年か経ち、ある日スーホは仲間たちから殿様の競馬大会に白馬と出場するよう誘われて町へ行きます。優勝すれば殿様の姫と結婚できます。もともと貧しかったスーホは、機能G‐a何かの欠落した状態にあり、この提案に乗ります。機能H主人公への仲介I主人公の同意・決意 J出発がここにあてはまります。スーホは町へ行き、競馬に出場し、優勝します。機能N移動O闘争Q勝利です。ところが、殿様はスーホの貧しい身なりを見ると約束を破り、銀貨3枚で白馬を奪い、抵抗する彼を打ちのめします。機能G敵からの加害です。この後、スーホは一人家に戻り、白馬も殿様からの逃亡を図ります。機能S帰還 ㉑追跡です。しかし、矢傷を受け、死んでしまいます。最後は白馬がその身を捧げて馬頭琴をスーホに作らせ、彼はそれを弾いて白馬を思い出す、つまり機能R不幸または欠落の回復で終わります。

この物語、実は舞台であるモンゴルでは知られていません。作者大塚雄三が採話した中国の民話集は、階級闘争意識を刺激する共産主義向きの昔話を集めて編集されたものです。一見すると、物語にあるべき機能㉚敵の処罰㉛結婚や即位は無いままですが、読者の怒りが殿様に向けられるという意味では、罰は巧妙に権力者へ下されているとも言えます。作品は、読者が完結させるものなのかもしれません。

 

 

 

 

物語を読むB

小3国語「モチモチの木」

 

 

ノーベル賞作家である川端康成の代表作「伊豆の踊子」に、「うなづいたのは誰か」という問題があります。物語の終盤で学生の「私」が船に乗って踊子と別れる場面で起きる問題です。

作品には、【踊子はやはり唇をきつと閉じたまま一方を見つめてゐた。私が縄梯子に捉まろうとして振り返つた時、さようならを言おうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた。】と書かれていますが、「うなづいて見せた」の主語は誰かという質問が、読者から川端の元へたびたび寄せられたそうです。川端は、これより前の箇所で踊子がうなづいているのだから、「もう一ぺん」と書いている以上、ここでうなづいたのは踊子に決まっているではないかと考えていました。ところが、一人の読者として読み返した時、後の一文が「私」で始まるため、「さようならを言おうとした」のも「うなづいて見せた」のも「私」とするのが、無理なことではないと考えを改めたのです。

  行間を読めば、主語は踊子であり、「私」ではないと言えるかもしれませんが、「さようならを言おうとした」の前に「踊子は」という主語がないため、誤読が生まれやすくなっているのです。しかし川端は、改訂版でもここに主語を補うことができませんでした。なぜなら、補ってしまうと今度は、「物語の語り手は何者」という問題が発生してしまうからです。語り手はもちろん主人公の「私」なのですが、その「私」の、踊子にしか分かるはずのない「さようならを言おうとした」という心情を語れてしまう奇妙さが、露呈してしまうのです。

小三国語教科書にある斎藤隆介作の「モチモチの木」は、夜を怖がる少年が、病気で倒れた祖父のために、夜道をかけて医者を呼んで来るという物語です。勇気と成長のお話しですが、語りかける様なその文体の主、語り手が誰なのかという点で複数の解釈が可能になる作品でもあります。聞き手に語りかける様な文体は、主人公豆太の視点に寄り添っていますが、主語としての豆太を三人称と捉えて読む他に、自分のことを「豆太」と呼ぶ少年の一人称として読むこともできるのです。

  あらかじめ配役を決めてこの作品を音読してみるとよく分かります。三人の登場人物、豆太、じさま、医者様と、地の文の語り手を別々の人に読ませる場合と、語り手を豆太と同じ子供の声で読ませる場合とでは、作品の印象と内容理解が、変わってくるはずです。

  作品の現実は、読者の読みによって変化するということになるようです。

 

 

 

 

物語を読むC

4国語「ごんぎつね」

 

 

「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは。」ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。兵十は、火縄銃をばたりと、とり落としました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。

小4国語教科書に掲載されている「ごんぎつね」は、宮沢賢治と並び称される童話作家の新見南吉が18歳の時に書いた、日本を代表する国民的童話です。物語は南吉が幼少の頃に聞かされた口伝をもとに創作したものですが、児童雑誌「赤い鳥」に掲載される際に発行人の鈴木三重吉の添削を受けており、前述の現在教科書で読まれている結末もこの添削バージョンです。

この物語の教科書への採用率は、1970年代以前は3割程度でしたが、70年代に7割、80年代以降は全ての教科書に掲載される国民教材となりました。70年代までの読解指導は、研究者の主題解釈をかみ砕いて生徒に伝達する古典読解型のものでしたが、パターン化した読解指導が子どもの国語嫌いを招いたという反省により、80年代以降は、読者の「読み」の多様性を尊重する受容理論型の指導が行われるようになっていきます。「ごんぎつね」の解釈も、光村図書の教師用指導書は、ゴンと兵十がゴンの「死をもって通じ合えたこと」を強調しているのに対し、東京書籍のそれは、「死を通してしか理解しあうことができなかった悲しさ」を強調するというように、教科書会社によって違いを見せています。

果たして「ごんぎつね」は、最後には理解しあうことができたハッピーエンドの物語なのでしょうか。それとも死によってしか気持ちを理解されることのなかった悲劇なのでしょうか。それはまさに読み手の自由な「読み」に帰することなのでしょう。この物語を読んだ生徒の中には、ゴンよりも、ゴンにウナギを奪われて母を死なせてしまった上、ゴンの余計な贖罪行為でいわし屋から盗人扱いされひどい目に遭った兵十に同情し、「ゴンは撃たれて当然だった」という感じ方を持つ子もいます。それもまた真実の一つかもしれません。何が真実と信じるか、何を真実として選び取るかは、読者の自由なわけです。

ところで、18歳の新見南吉が書いた原稿の結末は、鈴木三重吉の添削バージョンと一部異なり、兵十の視点からゴンの視点に語りが移っていました。

「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは。」ごんは、ぐったりなったまま、うれしくなりました。

 

 

 

 

物語を読むD

小5国語「大造じいさんとガン」

 

 

 

人間の発言には、叙述的な発言と、行為遂行的な発言があります。「教室に机がある」というのは、一つの事実の叙述ですが、「教室の机、整理しといて!」というのは、誰かに命じたり頼んだりする一つの行為です。叙述はその内容について真偽を確定できますが、行為には真も偽もありません。私たちが日常的に行う発言の大部分は後者です。そして後者には必ず、その発言を行為として成立させる存在である他者がいます。

動物の出る物語には、おとぎ話やファンタジーなど人間と同様に考えたり話したりするキャラクターが登場する話と、人間の目で観察した動物の姿を描く現実的な話がありますが、「ごんぎつね」など前者は、叙述文としては完全に「偽」だと言えるでしょう。一方、「シートン動物記」など後者は、「真」であることが前提になっています。

椋鳩十の書いた「大造じいさんとガン」は後者のタイプの物語ですが、真偽を問うと「偽」であろうと思われる部分が幾つかあります。一人の狩人と、渡り鳥のガンの頭領との知恵比べを描くこの物語は、その設定において誤りが指摘されています。まず、舞台となる鹿児島県の栗野岳にはガン亜科の群れが渡ってきた記録はなく、渡ってきていたのはカモ亜科でした。大造じいさんの相手はガンではなくカモだったようです。また、大造じいさんが捕まえたガンが彼になつき、その肩先にとまるようになったという描写がありますが、ガンもカモも人の肩を掴めるような脚は持っていません。

文体の面でもおかしな所があります。物語は筆者に語った大造じいさんの視点で進行していますが、じいさんの仕掛けた囮のガンがハヤブサに襲われた時は、「残雪の目には、人間もハヤブサもありませんでした。ただ、救わねばならないなかまのすがたがあるだけでした。」と述べられ、分かるはずのないガンのリーダー残雪の心情描写になっています。これは「偽」でしょうか。

「おーい。ガンの英雄よ。おまえみたいなえらぶつを、おれは、ひきょうなやりかたでやっつけたかあないぞ。」ハヤブサとの戦闘で傷ついた体の回復を待って、春の朝、大造じいさんは残雪を空に放してやります。戦いを通して既に残雪は大造じいさんの他者となっていましたが、この語りかけによってその他者性は確固としたものになります。それを踏まえて、筆者、読者という他者に語られる物語の全体も、一つの行為遂行文と解釈すれば、真も偽もありません。

 

 

 

 

 

物語を読むE

小6国語「やまなし」

 

17-1114-603_00

 

「クラムボンはわらったよ。」

「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」

 

かつて書物は声に出して読むものであり、物語とは文字通り「物」を「語る」ことでした。それが近代になり短時間で学習・情報収集するための読書が一般化したことで、読書はふつう黙読で行うものになりました。ところで、声に出して読むことを音読、または朗読と言います。音読は文字を音声に変換することだとして、朗読とは何でしょう。

『花もて語れ』という漫画があります。片山ユキオ・作、東百道・原案、テーマは朗読です。社会人一年目の女性が、ひょんなことから朗読の才能を見出され、その魅力に目覚めていくという異色ストーリーの第一巻で、主人公はある引きこもりの女性のために朗読することになります。その際に読まれた作品が、小六国語教科書にも掲載されている宮沢賢治の「やまなし」です。

『やまなし』は、谷川の底の蟹の兄弟が目にした生き物たちの世界を描いた作品です。宮沢賢治には、一読した後に読者が、「で、だから何・・・」と言いたくなる作品がよくあります。起承転結のはっきりした他の作家の児童文学に比べ、主題のよく分からない、不思議な物語が多いのです。「やまなし」も、作者の意図した主題が捉えにくい作品で、「かぷかぷ」わらう「クラムボン」なる正体不明の存在が登場し、わらったり、殺されたりします。

この捉えどころのない作品が、「花もて語れ」の主人公によって朗読される時、物語とは朗読されなければならないものであることが、痛切に理解されます。主人公は、『やまなし』冒頭の「クラムボンはわらったよ。」というセリフを蟹兄弟の兄、「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」を弟の声音で読みます。更に、1cm大の彼らの視点で地の文を読み、水深30cmの川底を、人間なら30mに見える深い水中世界として再現します。そして、その「読み」の根拠を問われると適格に回答し、「クラムボン」とは何かにも答えを出します。 

「一行たりとも意味が分からなければ朗読はできない。」この漫画はそう伝えます。それは、正しい朗読ができるようになった時には、既に本文の読解は達成されているということを意味します。もちろん、解釈は一つではありません。ですから正しい読解とは、作品を譜面としてその物語世界を再現する、無限の数の優れた朗読のことだと言えるのかもしれません。

 

 

 

 

物語を読むF

中1国語「少年の日の思い出」

 

「少年の日の思い出」の画像検索結果

 

文芸批評は、「不透明な批評」と「透明な批評」に分類されます。「不透明な批評」というのは、対象とする作品を言語的な構築物として捉え、その形式上の仕組みを作品の外側から分析する方法です。対して「透明な批評」は、作品世界と読者の世界との間の仕切りを取って、作品の中に入り込んで論じるような方法です。前者は、作品に描かれた客観的事実だけが批評の対象ですが、後者では作品に描かれていないこと、例えば「桃太郎の黍団子が不味かったら、犬と猿と雉は鬼退治を手伝ってくれたか?」といった問題設定を立てたりします。

「透明な批評」は作品からの逸脱として嫌われる面もありますが、自由な想像は物語を読む楽しみの一つでもあります。また、「もしも私が主人公なら」という仮定は、道徳の時間や読書感想文には欠かせない常套句です。

中一国語教科書には、ノーベル賞作家ヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」という小説が、60年以上もの間、掲載され続けています。日本では有名なのに、本国ドイツではほとんど知られていないという少し変わった作品です。

物語は、「私」の家に訪れた客の「僕」が、「私」の蝶の標本を見て、蝶の採集に夢中だった少年の日に犯した出来事を語るというものです。少年の日の「僕」は、エーミールという子が持つ珍しい蛾の標本を盗んだ上に傷つけてしまいます。エーミールに謝りに行くのですが、軽蔑の目で冷たくあしらわれた「僕」は、「一度起きたことは、もう償いのできないものだ」と悟り、自分の集めた蝶を全て押しつぶすのでした。

この作品について、もし自分が「僕」だったらという感想を述べ合い、「僕」の心情やエーミールの言動について、互いに共感したり、反発したりしながら、道徳的な議論をすることには、もちろん意義があります。「透明な批評」。

しかし、今一度「不透明な批評」に戻り、作品の客観的な構成に目を向けてみます。この物語は一見、「僕」が「私」に語った話という構造に見えます。でも、実際にこの物語を読者に語っているのは「私」です。そして、その読者の中には「僕」も含まれ得るのです。苦い少年の日の思い出を第三者である「私」に語り直されることで、その暗い思い出は客観化・相対化され、僕の中の怒りや屈辱や罪悪感が、ようやく氷解していくのです。「僕」と一体となった読者が「僕」の立場に立ってその気持ちを理解しようとする主観的な「透明な批評」の存在が、「僕」の立場を公平に批評できる客観的な構成の中で、それを保証しています。

 

 

 

 

物語を読むG

2国語「走れメロス」

 

「走れメロス」の画像検索結果

 

文章を書くには動機が必要です。それは、何かを伝えたい相手であり、誰かに伝えたい何らかの思いです。作文を書けない子が作文を書けない最大の理由は、大抵この動機が欠けていることにありますが、物語も、作家には書くべき動機、つまり、想定する読者や、その読者に伝えたい何かが必要です。

中二国語教科書に掲載されている「走れメロス」は、友情や信頼の尊さを伝える作品として広く知られています。アニメ作品になったり、演劇になったり、パロディ化されたり、原作を読んでいなくとも内容は知っているという人は少なくありません。道徳性の強い内容から、教育の場で使用されることも多い作品ですが、「人間失格」などの作品で知られる作者の太宰治は、不倫や心中の常習犯で、あまり道徳的とは言えないエピソードを豊富に持つことで有名です。

「走れメロス」はドイツの文豪シラーの詩「人質」を原作としています。暴君ディオニュソスの殺害を試みたメロスは捕縛され、死刑を宣告されるものの、妹の婚礼を済ませて帰ってくるまで刑の執行を待つように頼み、親友を人質として差し出す。三日後、橋無き激流の川、盗賊の襲撃、焼けつく太陽などの障害を潜り抜け、死刑執行直前、親友の前に現れるメロス。心打たれた国王は彼と友を許し、改心する。「人質」の内容は「走れメロス」とほぼ同じで、メロスは道徳的なヒーローです。でも、太宰が物語を書く動機となった出来事は、あまり道徳的とは言えません。

ある時、熱海の旅館で太宰は、友人で作家の檀一雄と一緒に数日飲み歩き、二人は金を使い果たして支払い不能になります。そこで、太宰は檀を人質として宿に残し、東京へ借金に行きます。しかし、何日待っても彼は戻りません。しびれを切らした檀は、支払いを待ってもらい、東京へ行ってみると、彼は恩師の井伏鱒二の家でのんきに将棋を打っていました。激怒する檀に太宰は、「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。」と呟いたそうです。

「走れメロス」と「人質」を比べると、前者には、友の信頼を守ろうとする自分に酔い痴れるナルシストな独白や、困難を前にしてする言い訳が目立ちます。道徳的解釈は、正義を貫く者が障壁に直面した際に見せる葛藤としてそれを説明します。しかし、檀を裏切った太宰治にとってこの作品は、その悪しき記憶を払拭し、誠実な人間としてのアイデンティティを守るため、シラーの詩に託してこしらえた、自分自身への言い訳だったのかもしれません。

 

 

 

 

物語を読むH

3国語「故郷」

 

「魯迅 故郷」の画像検索結果

 

「ふとんがふっとんだ」というダジャレを外国語に翻訳することは可能でしょうか。単語に分割して逐語訳すると、「ふとん」と「ふっとん」の発音の類似性は消えてしまいます。こうした言葉遊びや、短歌・俳句などの定型詩のリズムを厳密に翻訳することは難しそうです。となると、翻訳者が原文の伝えようとすることを完全に伝えることは不可能だと言えそうです。

中3国語教科書に掲載されている「故郷」は、中国の文豪である魯迅の代表作で、自身の体験を基にしたとされる作品です。地主だった主人公の実家は没落し、一家で故郷の家を引き払わなければならなくなります。転居の準備のため、主人公は20年ぶりに故郷へ帰り、そこで少年時代の友人で憧れの存在だったルントウに出会いますが、彼は主人公を「旦那様」と呼び、二人の間に悲しい身分の差があることを主人公は突き付けられるのです。しかし、彼の甥がルントウの息子と親しくなり、再会を約束していたことを聞いた主人公は、若い世代の希望ある未来を願うのでした。

教科書に掲載されている「故郷」の翻訳は中国文学者の竹内好が行っています。しかし、他にも十人以上が翻訳し、その内容は要所要所でかなり印象の異なる日本語になっています。翻訳者の数だけ解釈の異なる「故郷」が生まれているわけです。

故郷を離れる船上で甥のホンルが「僕たち、いつ帰ってくるの」と主人公に聞くシーンがあります。彼はルントウの子シュイションと遊ぶ約束をしていたのです。それを聞き主人公とその母は、「はっと胸をつかれた」と竹内は訳しています。しかし同じ個所を佐藤春夫は「母と私はそれに気を取られて」と訳し、井上紅梅は「わたくしどもは薄ら睡くなってきた」、増田渉は「なんとなくうら悲しい気持ちであった」と訳しています。一方、魯迅の原文は「我和母親也都有些惘然」となっています。「惘然」とは「何かを失って、がっかりし、満足しない様子」を表す言葉で、子供たちが交わした果たされがたい約束を聞き、切ない気持ちになってしまった主人公たちの複雑な様子を表現しているのです。

翻訳とは、単語レベルで原文を分析し、それを目標言語で最構造化する作業ですが、それは原文の再生を目指して行われる2次創作です。物語の大筋は変わらなくても、細部の表現は翻訳者の創造力に委ねられているのです。

 

 

 

 

物語を読むI

高校国語「山月記」

 

「山月記」の画像検索結果

 

「人間はだれでも猛獣使いであり、その猛獣にあたるのが、各人の性情だという。おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。」

小説や映画でも、人が人ならざる異類に変化する物語がよくあります。狼や蛇や豚や蠅やゴキブリ、人は色んな物に変身してしまうようです。日本の能では、強い恨みの念から鬼となる話が一つの型になっていますが、心の闇、負の性情、自分の中に棲む猛獣を抑えることができなくなった時、中身も外見も猛獣になってしまうのです。

高校の国語教科書に掲載されている中島敦の『山月記』は、そんな変身譚の一つです。唐の時代の中国、若くして科挙試験に合格した秀才の李徴は、エリートコースにありながら、一介の役人として俗悪な上司に屈するより、詩人としての名声を得ようと、官職を退きます。しかし、文名は揚がらず、生活が苦しくなり、妻子を養うために下級役人として再び働くことになるのですが、その境遇に彼のプライドは傷つき、ついに発狂して失踪してしまいます。ある日、出世した李徴の旧友が、勅命で部下を引き連れ使いに行く道中、一匹の獰猛な虎に襲われます。実はその虎こそ、発狂した李徴の変わり果てた姿であり、相手が旧友であることに気付くと、喰らいつくことをやめ、やがて低い声で自分が虎になった経緯を語り始めるのです。

「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」それが自分を虎にした原因、あるいは己の中の猛獣だったと李徴は告白します。「郷党の鬼才」と呼ばれ、詩によって名を成そうという自負がありながら、自分の無才を意識したくないがために、師の指導を受けることや、有能な者と競い合うことを避ける「臆病な自尊心」。自分より能力の劣る者の下で働いたり、彼らと交わったりすることを恥じる「尊大な羞恥心」。それが彼を世間から遠ざけ、自分の殻に引きこもらせた「虎」だったのでした。

「人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だ」と李徴は言います。矜持や嫉妬、物欲や愛欲、様々な性情による様々な執着心に支配され、人格障害に陥り、狂人や犯罪者に変化してしまうことを、私たちは無意識に怖れていますが、「理由も分らずに押し付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ」とも、作者は書いています。儘ならぬ自分という猛獣がいつ檻を破るのか、それは予測不能な事かもしれません。

 

 

 

 

物語を読むJ

高校国語「羅生門」

 

「小説 羅生門」の画像検索結果

 

私達は、社会の中で自分がいるべき位置や演じるべき役割を失うと、精神的に不安定になり、何らかの神経疾患に陥る危険があります。そのため、現在の位置・役割を肯定する物語として自己同一性・アイデンティティを作り、物語が壊されないように自尊心・プライドという感情でガードしています。こうした神経システムにとって大事なのは、善人としての物語や悪人としての物語といった自己同一性の中身よりも、それを守っているプライドが傷つかないようにすることです。

芥川龍之介の『羅生門』に登場する下人は、仕えていた主人から暇を出された失業中の若者です。物語は、その下人が生きていくために盗人になるべきか否か、選択を迫られている状況から始まります。彼は決断できぬまま、荒れ果てて、死体の捨て場となっていた平安京の羅生門で、ひとまず一夜を明かそうとするのですが、そこで女の死体の頭から黒髪を引き抜いている老婆を目撃します。老婆の行為を許しがたい悪行と見た彼は、正義感に駆られて、刀を持って彼女に飛び掛かり、取り押さえます。しかし、髪を抜かれていた死体の女も、生前は干し魚と言って蛇の肉を売っていたため、生きるために彼女の髪を抜いてカツラにしようとする自分を許してくれるだろうと言う老婆の話を聞くと、一転して盗人になる勇気をもらい、老婆の着物をはぎ取って、走り去って行くのでした。

この小説は、人間が持つエゴイズムの現実を表現したものとして語られますが、その面白さは、人間のアイデンティティには節操が無いというテーマです。

私達がある行動をする際、敢えてその行動の障害になるような事をして、失敗した時の言い訳とする行為を、セルフ・ハンディキャッピングと言います。プライドを傷つけないための神経作用です。下人は羅生門の下で、悪人アイデンティティ選択の決断を迫られていました。そんな時、醜い老婆が醜い所業をして見せてくれたため、彼はこれを取り押さえるという格好のセルフ・ハンディキャッピングを実施します。自分には正義感がある、ということで悪人として失敗しても彼のプライドは守られます。一方、老婆の話を聞いて、盗みをしても許される状況に自分はいるのだと、善人として失敗するための言い訳もしています。

盗人になったかに見えますが、実際には、この後の彼が善悪どちらの自己同一性に落ち着くか不明と言えるでしょう。

「下人の行方は、誰も知らない。」

 

 

 

 

物語を読むK

高校国語「こころ」

 

「こころ 夏目漱石」の画像検索結果

 

高校の国語の教科書に掲載されている近代小説の中で最も有名な作品といえば、夏目漱石の『こころ』でしょう。海外の大学で『源氏物語に』次いで扱われる日本の作品であり、文学の世界において日本の顔となっています。もともとは、漱石が『こころ』という短編集の一つとして書こうとした作品でしたが、長くなりすぎたため、この一編だけが出版されたのでした。

作品は「先生と私」、「両親と私」、「先生と遺書」という三部構成になっています。初めの「先生と私」では、東京帝大生の「私」が、海水浴場で偶然出会った男性に興味を引かれ、彼を「先生」と呼んで交流していく様子が描かれます。「先生」は、愛する「奥さん」がいながらも働かず、親の資産だけで生活する高等遊民です。帝大卒で「私」と専攻が近く、深い学識と見解を持っていたため、「私」は大学の教授たちよりも「先生」の方に敬意を抱くようになります。そんな「先生」には、過去に関するある秘密があります。それが彼を社会から隔てる原因だったのですが、その秘密については決して語ろうとしませんでした。ただ、「(世の中は、善人が)急に悪人に変るんだから恐ろしいのです」、「恋は罪悪ですよ」などの言葉を「私」に聞かせるだけでした。

二つ目の「両親と私」は、大学卒業後の夏に「私」が帰郷し、両親と実家で過ごす日常が描かれます。父が客を招いて「私」の卒業祝いをしようと準備していると、明治天皇危篤の新聞報道があり、かねて腎臓を病んでいた父も、それにつられるように体調を悪化させ、終には末期に臨む身となります。その父の看病をしていた「私」のもとに「先生」からの分厚い手紙が届きます。「先生」の遺書でした。

最後の「先生と遺書」には、「先生」を社会から隔絶させ、その才能を発揮しようと奮起する度に、「お前は何をする資格もない男だ」と言って彼の足を引き、彼の心を挫く不思議な力が生まれた経緯が描かれていました。遺書に書かれた恋と友情と嫉妬と裏切り、そして死。

「記憶して下さい。私はこんな風にして生きて来たのです。」

「先生」は、拭うことのできぬ死者への後ろめたさを背負い、何を為すこともできぬまま、生殺しのようにして十数年の歳月を生きました。そして「自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」と言い、明治時代の終わりに殉じて死ぬのでした。

過去に後ろめたさを持つ人間の心を断罪する、他者としての死者。エゴイズムと倫理の、矛盾の峡谷に陥った者にのみ見える幽霊。小説『こころ』は、そうした現実世界に実在する亡霊の、リアリティを描いた作品なのかもしれません。