2015年度特別コラム「台湾島の話」

 

 

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オーストロネシア語族の分岐

 

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台湾島

 

南太平洋の西端に浮かぶ島、台湾島。海峡を隔てて西に中国大陸、南にフィリピン、北に東シナ海、東に日本の西端与那国島が位置する。全島面積は35,915平方km。南北に長いその土地の3分の2を山地、丘陵地が占め、中央にはこの島最高峰の玉山がそびえている。南西部には広大な嘉南平野が広がり、東部には山脈の狭間を花東縦谷が南北に伸びている。

この島は、ユーラシアプレートとフィリピン海プレートが交差する境界上にあって、複雑な地質構造を持つ。地殻の上部は、地質時代にいくつかの島弧がプレート同士の衝突によって合体したものだという。このプレート同士の拮抗した状態が、現在に至るまで、この島に多くの大地震を引き起こしてきた。

地球上で、周期的に入れ替わる氷期と間氷期。現在の間氷期が始まる前のヴェルム氷期の時代、この島は大陸と地続きだった。2万から3万年前のこの氷期に、北部には網形文化、南部や東部に長浜文化と呼ばれる旧石器文化のあったことが確認されている。紀元前7千年ごろから、中国浙江省の河姆渡文化に関連すると言われる大坌坑文化が広がり、前5千年期牛罵頭、牛稠子文化に引き継がれる。やがて、既に島嶼化していた前2千8百年頃から、円山文化が伝来する。だが、これら新石器文化を担ったのが現在の台湾原住民だったのかは、まだ分かっていない。

その台湾原住民の話。ヨーロッパに大航海時代が訪れ、インド・ヨーロッパ語族が世界各地に植民地を広げていく以前、地球上で最も広大な範囲に拡大した語族は、現在のフィリピン、マレーシア、インドネシアといった東南アジアの諸地域や、ポリネシア、メラネシア、ミクロネシアといった南太平洋の島々に住む、オーストロネシア語族であった。この語族に属する諸言語は非常に多様だが、マレー・ポリネシア語派と、台湾原住民の台湾諸語、二つに大きく分類できる。前者は後者の派生形だという。これは、オーストロネシア語族の最古の言語形態を維持しているのが台湾原住民の言葉であり、この一大語族の起源が台湾島だったということを意味する。この島に新石器文化が広まっていた今から5千年前、カヌーに乗ってこの島を旅立った人々が、東は太平洋東端のイースター島まで、西はインド洋西端のマダガスカル島まで、南端はニュージーランドまで、海を越えて進んでいったのだ。

台湾島の原住民は、アミ族やタイヤル族などの山地原住民と、クバラン族やケタガラン族などの平地原住民に大別される。後者は、中国明代以降に大陸から移住してきた漢人と交わり、漢文化を共有する「台湾人」を形成していくことになる。

 

 

 

台湾島の話A

  歴史の始まり

 

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ゼーランジャ城

 

 歴史学の主な研究対象は、遺された文献資料だ。文字のない時代について委ねられる考古学は、文献以外の資料から人々の生態を推測するが、歴史的事実を示すことはできない。文献資料を証拠として過去の「事実」を再現して示す事は、歴史学に与えられた社会的特権と言える。

台湾島の歴史を始めたのは、外来の諸勢力だった。オーストロネシア語族の発祥地と言われるこの島の住民たちは、まだ文字を必要としていなかったためである。古くは中国の三国時代や隋代、元代にそれらしき記録はあったが、琉球諸島と混同していたり、台湾島の西に浮かぶ澎湖諸島の事であったり、台湾島の記録ではない。最初にこの島の事を文字に記録したのは、大航海時代にアジアへ進出してきたポルトガル人の船乗りだった。「イラ・フォルモサ」即ち「麗しき島」と、美しい島を見つけるたびにそう名付けていたポルトガル人は、アフリカ、南米、アジアに十を越す同名の島を見つけたが、今日では台湾を指す固有名詞となっている。日本の種子島にポルトガル人が漂着し、鉄砲を伝えた翌年、この島は「発見」された。

「発見」された、といってもヨーロッパ人に発見される前から住民はいたし、日本人を中心とする倭寇や中国の海賊が大陸沿岸部を荒らしては、官憲の手から逃れてこの島に寄り、諸部族と交易した。だが、あいにく彼らは記録を残さなかった。

ポルトガル人による発見から半世紀ほどして、日本を統一した豊臣政権は、日本で高山国と呼ばれるこの地の王に向け入貢を促すため、原田孫七郎を使者として派遣した。だが、会うべき王も、従えるべき高山国もなく、この交渉は不能に終わった。徳川へ政権が移って後も、有馬晴信や長崎代官村山等安による台湾出兵があったが、成功はしなかった。

台湾島の領有に成功した歴史上最初の勢力は、オランダ東インド会社だ。1603年、先に澎湖島に上陸したが、中国の明朝の軍に敗れて撤退、1622年に再びこの地の占領を図り、今度は成功する。しかし、1624年に明朝の軍と再度戦闘状態に入った。8か月の攻防の後、明朝はオランダが澎湖諸島を明け渡す代わりとして、台湾島占領を許可し、中国との貿易も認める停戦協定を結んだ。

こうしてオランダは台湾島南部に入植、ゼーランジャ城とプロビンシャ城を築き、日本・中国・ジャカルタを結ぶ貿易の拠点とした。また、中国福建省や広東省から農場労働者を募集、漢人移住民の人口が急増した。先住民である台南のシラヤ族は、これらの外来者を「タイアン」=客人と呼び、それをオランダ人が「Taioan」と書いた。

「台湾」が、ここに始まる。

 

 

 

台湾島の話B

最初の支配者

 

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 オランダ海上帝国の支配地

 

1602年、スペイン・ハプスブルク家からの独立を目指す八十年戦争の渦中にあったオランダは、人類最初の株式会社であるオランダ東インド会社を創設した。その主な業務は、東南アジアにおける交易と侵略と植民地経営であり、この地域でのスペイン、ポルトガル、イギリスとの熾烈な貿易競争の担い手となった。当時、オランダの正式名称はネーデルラント連邦共和国、プロテスタント・カルヴァン派であるネーデルラント北部七州の連合体で、生まれたばかりの国家だった。指導者は、ヨーロッパに軍事革命をもたらした戦術の天才マウリッツ・フォン・ナッサウ。総督として最期までスペイン軍と戦い続けた。

オランダがその艦隊を台湾島南部に上陸させた1624年はマウリッツの最晩年であり、スペインの名将スピノラと激闘を交わしていた頃である。ヨーロッパでの華々しい独立戦争に比べると、オランダ東インド会社の植民政策は陰惨を極めたものだった。バタビアと呼ばれていたインドネシアのジャカルタにおいても、台湾島においても。上陸当初、この島の先住民や中国からの移住民は、城塞構築などに協力的だったが、その城がやがて彼らを抑圧する武器となった。

この島の支配を固めるためオランダは、牧師たちに宣教をさせた。先住民に対する布教用に、その言語をローマ字化した聖書も作られた。先住民は初めて文字を習得し、中国系移住民たちとの間の契約文書を作成するなどした。一方で、先住民の全ての生産と消費には重税が課され、中国から来た移住民たちからは人頭税も取り立てた。その移住民の多くは、この島の農業開発のために使用された。キャベツ、エンドウ豆、トマト、マンゴー、唐辛子の移植が成功し、米や特にサトウキビは重要な輸出品となった。住民たちの農場労働、その彼らに対する苛斂誅求、そして日本・中国・バタビアを結ぶ中継貿易による莫大な利益が、オランダ海上帝国の隆盛に寄与した。

以前からこの島で出合貿易をしていた日本船や中国船にも、そのころ10%の関税が課された。不満を持った日本の朱印船船長浜田弥兵衛は納税を拒否し、逆にオランダの台湾長官を襲撃し人質とした。そして、10数名の先住民を日本へ連れて行き、徳川家光に謁見させた。住民代表のリカはオランダ支配の窮状を訴え、台湾島の日本への割譲を申し出たが、幕府はそれを受けなかった。だが、オランダが日本との貿易を重視して譲歩し、事件は解決した。

大国スペインもオランダに対抗して台湾島北部に進出したが、貿易上の競争に勝ち、武力によってスペインを駆逐したオランダが、この島の最初の支配者となった。

 

 

 

台湾島の話C

国姓爺合戦

 

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国姓爺・鄭成功

 

ある民族の武力統一成功ほど、周辺国にとって厄介な出来事はない。民族内の部族間抗争は強力な軍事組織を育成する。それは戦うこと、侵略することを目的に編成された組織であり、統一が達成しても、その性格を簡単には変えられない。同じ活動を続けていないと、せっかくの組織が、国家が、解体してしまうのだ。

東アジア最強の歴代中華帝国は、最も旨みのある土地の所有者でもある。周辺に部族統一を達成した国が生まれる度に侵略にさらされ、時によっては丸ごと土地を奪われて、非漢民族による中華帝国が誕生することもしばしばだった。16世紀半ばから17世紀前半にかけて、漢民族の明帝国は、モンゴルのボルジギン氏、日本の豊臣氏、女真の愛新覚羅氏といった民族統一を成し遂げた強力な軍事組織の侵略に相次いで直面した挙句、内乱で滅んだ。

その衰亡期の明国復興に生涯を投じて戦い続けた英雄が、国姓爺こと鄭成功だ。彼の父は中国福建省出身で、当時最大勢力を誇った武装海商の頭目である鄭芝龍。母は日本人で、九州肥前の平戸藩士の娘、田川松。日本で生まれ、幼名は福松と言い、中国名は鄭森と言った。台湾を本拠としていた父は、オランダの台湾進出に伴い、妻子を連れて大陸に移住した。少年はそこで中華的教養を身につける。   

彼が二十歳の時、李自成の反乱に遭って皇帝が自殺。福建省で皇族の一人を芝龍たちが擁立して隆武帝と呼び、李自成を破った愛新覚羅氏の清国に対し、明国復興の戦いを始めた。その際、謁見した鄭森を気に入った隆武帝は、彼に皇族の姓「朱」を与えたが、鄭森はこれを畏れ多いとして朱姓は名乗らず、代わりに名を鄭成功と改め、明国復興に尽力することを誓った。これ以後、周囲では「国姓を賜った大身」の意で、彼を国姓爺と呼んだ。

だが、新生清帝国の勢いは強く、鄭親子の力戦も空しく隆武帝は殺される。この時、父芝龍は清国に対して勝算は無いと諦め、降伏してしまう。父と別れ、新たに永暦帝を主君に仰いで清国と戦い続けた鄭成功だが、南京で大敗、挽回を図るため、オランダの支配する台湾を奪い取ることにした。2万5千の大軍を率いて台湾に渡った鄭成功は、オランダ人の支配に憤懣を抱いていた中国系移住民に歓迎され、プロビンシャ城を瞬く間に奪い、ゼーランジャ城を包囲し、オランダを降伏させて台湾から撤退させた。

ところが、鄭成功は台湾に来て一年足らず、39歳で病死した。跡は子と孫が継ぎ、清に降伏するまでの20年強、短命ながら初めて漢民族系の権力がこの島を支配する、鄭氏政権時代がこの島の歴史に刻まれたのだった。

 

 

 

台湾島の話D

清朝統治と「台湾人」

 

 清の国旗

清朝の国旗

 

台湾島の歴史上、最も長くこの島を統治した政権は、満州族の侵略王朝である清朝だった。清の中国征服に対抗し、漢民族の明朝復興を掲げてオランダ東インド会社を追い払い、台湾島を支配した鄭氏政権は、鄭成功、鄭経、鄭克の3代20年で清に降伏した。その年1683年から、日本統治が始まる1895年までの約2百年間、この島は清朝の支配下にあった。

鄭氏政権を滅ぼした清朝では、当初「台湾は中国から離れた孤島であり、海賊や逃亡犯など無法者の巣窟で、領有しても益なし」という台湾放棄論が有力だった。だが、台湾攻略軍の司令官で台湾通の施琅が時の皇帝康熙帝に、経済・国防・治安の上から領有の重要性を説いたため、台湾島は清に所属することになった。  

とは言え、その長い統治期間のほとんどは消極的な経営が続いた。鄭氏政権では農業を中心に積極的な開発が進められていたが、清朝は台湾が海賊や反抗勢力の根拠地となるのを防ぐことに重点を置き、この島にいた移住民10数万人を強制的に大陸へ引き揚げさせた。残留した移住民に対しても全面的な人口調査を行い、妻子と生業を持たない者は中国の原籍地へ送還し、妻子と生業を持つ者も、原籍地官庁への申告と、統治機関である分巡台厦兵備道による審査が義務付けられた。更に、大陸から台湾への渡航にも同様の法手続きを義務付けて厳しく制限し、渡航者には家族の同行や呼び寄せを禁じた。こうして一時は大陸からの移住民人口が大いに減った台湾島だったが、1年に3度米が獲れると言われるこの島の肥沃な土地は、福建省や広東省からの密航者を呼び寄せ、清国政府の意図に反して島の農業開発は着々と進んでいくのだった。

ところで、密航者というのはほとんどが妻子を持たない男性である。彼らがこの島で娶ることができるのは、当然ながら原住民の女性しかいない。血はハーフだが、子供たちの籍は漢族系となる。こうして、中国人の祖父はいても、中国人の祖母がいない「漢人」たちが増え続けた。また、平地先住民で「漢人」と文化的に同化していった人々は「熟蕃」と呼ばれ、山地先住民「生蕃」と区別された。ここに、漢文化を共有する「漢人」と「熟蕃」によって、将来の「台湾人」が形成されていく。だが、「台湾人」人口が増え続け、その農地開発が進む一方で、山地先住民の人口比率は低下していき、その居住地も次第に狭められていくことになる。

消極政策を続けていた清朝だが、やがて帝国主義の時代が到来し、列強の目が台湾に注がれるとともに、積極統治へ政策転換することにした。だが、政策転換開始の20年後、この島は別の国のものとなっていた。

 

 

 

台湾島の話E

日本の台湾進出と台湾民主国の抵抗

 

 台湾民主国の国旗

台湾民主国国旗

 

19世紀末、帝国主義列強の抗争の渦に巻き込まれるようにして、日本と清の両国は朝鮮への影響力を巡る日清戦争を始めた。その戦争を遡ること二十年ほど前、両国は現在の沖縄である琉球の帰属、そして台湾島を巡り対立していた。

1871年、琉球の宮古島の住民数十名が台湾南部に漂着し、この島の牡丹社という部落の先住民に殺害される「牡丹社事件」が起きる。この事件を機に琉球の帰属と台湾への進出を同時に果そうとした日本政府は、事件に対する清朝の責任を追及し、清朝の「台湾島は教化の及ばない蕃地だ」という責任回避の返答を受けて台湾に出兵、その「蕃地」を占領した。清朝は日本が台湾から撤兵する代わりに、日本の軍事行動を「国民保護の義挙」と認め、「日本国の被害者遺族」に対し弔慰金十万両を支払った。この結果、間接的に琉球の日本帰属が清に認められることになる。

二十年後の日清戦争において日本軍は、山形有朋や伊藤博文など維新の元勲たちが想定していた以上の戦果を挙げ、逆に清軍は想定外の弱さを露呈した。勝利を確信した日本は、この機会に台湾を領有しようと、清と講和条約を結ぶ前に澎湖列島を占領し、澎湖列島と台湾島の割譲を条約に盛り込ませた。

だが、台湾島の官民の中には、日本への割譲に対して強硬に異を唱え、徹底抗戦を主張する人々がいた。「眠れる獅子」大国清に勝った日本に台湾住民が勝てる訳もないが、日本の台湾領有にフランスが反対し、派兵も辞さない態度を示したため、彼らの台湾独立も夢ではなくなった。

1895年5月23日、「台湾民主国独立宣言」が布告された。アジア最初の共和国である。総統は唐景ッ、副総統に邱逢甲、大将軍に清仏戦争の勇将・劉永福が就いた。しかし、頼みの綱であったフランスは、植民地での動乱のため派兵を中止した。ロシア、ドイツと共同で行った三国干渉により、日本の遼東半島領有阻止に成功し、それ以上を求めなかったためでもある。また、清国官僚だった指導者たちの多くは当初より逃げ腰で、総統の唐景ッは日本軍の台湾上陸後二週間で厦門へ逃亡した。その状況で、大日本帝国の台湾総督として澳底に上陸した樺山資紀大将が基隆を占領すると、混乱した台北城内では略奪暴行が始まり、ついには市民自ら日本軍の入場を要請した。

たやすく北部は制圧されたが、その後の南進には日本も苦戦する。清国官吏が逃亡する中、台湾を父祖の地とする移住民が、先住民の協力も得、婦人も含めて玉砕覚悟の抵抗をし、一万四千人が殺戮された。だが、この戦いを通して初めて、自らを台湾人とする意識が島民たちに生まれた。

同年10月19日、抵抗を続けていた劉永福将軍も、更なる犠牲を憚ってこの島を去り、建国後一四八日で台湾民主国は崩壊した。

 

 

 

台湾島の話F

生物学的植民地経営

 

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後藤新平

 

1895年11月に台湾全島制圧を宣言した日本の台湾総督府だったが、その台湾統治の初期は相次ぐ武装抵抗の鎮圧に奔走する日々だった。武力衝突による被害者の多さから、帝国議会では1億元で台湾をフランスへ売却する案も出された。

1898年に4代目総督に就任した児玉源太郎は、陸軍大臣や内大臣・文部大臣などを兼任し、日露戦争時には満州軍総参謀長に就いていたため、台湾に滞在した期間が短く、実質的な台湾統治は彼が民政局長に起用した後藤新平が担っていた。後藤は、武装抵抗に対しては警察力を強化しつつ徹底的な鎮圧を行う一方、投降者に対しては罪を免除して更生資金と職業を与えるという、「飴と鞭」の併用で治安の回復に臨んだ。結果、武装抵抗を取り締まる「匪徒刑罰令」によって3万2千人もが処刑されたが、1902年には漢人による武装抵抗は制圧された。    

「生物学的植民地経営」、それが後藤の台湾統治の基本方針だった。彼は、文化・文明の立ち遅れた植民地住民の本国への同化は困難と判断し、本国法は適用せず、ドイツの科学的な植民地経営を参考に、台湾島の社会風俗を生物学的に調査・分析し、現地独自の法を布いて統治に臨んだ。まず、土地調査・戸口調査・旧慣調査を行い、土地と人間と社会関係を把握して、台湾統治の基礎とした。次に、アヘンの漸禁政策を成功させ、度量衡と貨幣制度を統一し、中央銀行としての台湾銀行を設立した。更に、港湾の増改築・鉄道敷設・道路の改修と延長・通信網の整備・公衆衛生事業などの各種インフラを整備し、公学校・小学校の制度公布や師範学校開校等の教育施策、水利灌漑施設の整備による農業振興を実施した。また、新渡戸稲造を起用して製糖技術を近代化させ、製糖業からの税収を大きく増加させた。こうして台湾は、児島と後藤の任期中に予定よりも早く財政的独立を果たし、後には本国財政と経済にとって最も価値の高い植民地と呼ばれるに至った。

だが、「ヒラメの目をタイの目にはできん」と言う後藤の統治下、台湾の独自性は尊重されたが、本国の法では守られる諸権利がこの島では認められず、日本人に対し台湾人は明確に差別されていた。これに対する不満は、後藤が任期を終えた後に起こる、北埔事件や西来庵事件などの武装抵抗に現れた。

1918年、日本初の本格政党内閣の総理となった原敬は、台湾を本国の一部とする同化主義へ政策転換する。国内法の台湾への施行を原則とし、総督には文官の田健次郎を任じた。その頃、世界的な民族自決の潮流は、台湾にもデモクラシーの嵐を吹かせようとしていた。

 

 

 

台湾島の話G

内地延長主義と台湾議会設置請願

 

 

林献堂

 

1915年、漢民族系台湾人による最後の武装抵抗だった「西来庵事件」が鎮圧された頃、世界では、辛亥革命、ロシア革命、アメリカのウィルソン大統領による民族自決の提唱、朝鮮の三・一運動など、民主化と反植民地主義の風が吹いていた。

日本でも大正デモクラシーと呼ばれる民主主義・自由主義の運動が国民的に広がり、1918年には立憲政友会の原敬が初の本格政党内閣を成立させた。原は台湾の人事においても、武官総督を文官総督に代え、田健次郎を任命する。この原首相と田総督が台湾統治に対して採った方針は内地延長主義だった。台湾では「六三法」という時限立法により、日本本土の法律と異なる台湾総督の律令によって統治されていたが、新たな法律「法三号」により総督の律令制定権は制限され、台湾にも本土の法律が施行されることになった。だがそれは、台湾を日本へ完全に同化させようとすることでもあった。

これに先んじて台湾では1914年に明治の元勲板垣退助を引き込んで、林献堂たちが台湾同化会を結成し、台湾人の日本への同化を訴えた。だが、日本人と同等の権利獲得を目指す主張が、反統治主義的だと総督府に危険視され、結成から1ヶ月で解散に追い込まれた。

  その後、林献堂は日本に渡り、東京で留学中の蔡培火らと「六三法」の撤廃を目指す啓発会を設立し、更にこの会を発展的に解消して、林呈禄らと新民会を設立した。この間、献堂たちは「六三法」撤廃と日本人への同化を求める立場から、内地延長主義を植民地主義だと批判する立場に変化、台湾の独自性を訴えて自治権獲得を目指す台湾議会設置請願運動を開始し、機関誌である「台湾青年」で主張を展開していった。この運動は日本の学者や政治家からも多くの支援を得たが、台湾では政治活動が許されなかったため、蔣渭水らが台湾文化協会を設立し、文化振興を建前とした活動を広めていった。

台湾内で結社を禁じられた台湾議会期成同盟会だが、東京では内務大臣の認可を得、議会設置の請願を行うことができた。その会員が台湾に戻った時、事件が起こる。東京で活動した会の会員が、先に台湾で禁止した会の会員と同一であったため、治安警察法違反容疑で18名が拘留、起訴された。裁判では貴族院議員の渡辺暢や衆議院議員の清瀬一郎が弁護人となり、一審では全員無罪となったが、二審と三審で有罪判決を受け13名が入獄した。

やがて世界的な社会主義の伸長が台湾にも影響し、運動は左右に分裂、日中戦争の開始と共に終息した。だが、一連の政治運動は、台湾人の心に政治的近代化と台湾人アイデンティティをもたらした。その歴史的意義は、この後この島に訪れる悲劇によって顕現することになる。

 

 

 

台湾島の話H

戦時体制と皇民化

 

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高砂義勇隊

 

1930年10月27日、台中州能高群霧社公学校の運動会を、武装した300人ほどの男たちが襲撃し、男女子供を問わず132人の日本人と和服を着ていた台湾人2名を惨殺した。暴徒は警察署や役所なども襲い、武器弾薬を奪った後、山間部に籠った。彼らは、山地原住民である霧社セデック族マヘボ社と他6社の男たちで、軍と警察による鎮圧に頑強な抵抗を続け、日本軍は制圧のために爆撃機や毒ガスを用いた。また、対立する他のセデック族に協力させ、50日ほどでようやく鎮圧することができた。日本統治時代最大の原住民による暴動、霧社事件である。

事件の原因は、日本の統治政策に原住民への侮蔑があったことが指摘されている。原住民に対する日本語教育の普及率は漢族系よりも高く、言語の異なる各部族間の共通語になるなど、その統治が一定の成果を出していたため、事件の衝撃は一層強いものだった。この後、総督府は政策方針を修正し、原住民の生活の向上と、日本に同化する原住民の顕彰に力を入れていく。大陸で満州事変が起き、日本が戦時体制に入っていく頃の話である。

日本が日中戦争と太平洋戦争を行っていた時代は、この島の経済発展が増進し、人々の生活と地位が大きく向上した時期だった。八田與一が完成させた烏山頭ダムなどの農業インフラに加え、軍需産業の育成による工業発展に伴い、鉄道・路線バス・港湾・空港・上下水道・ラジオ放送・郵便・電信電話など、各種インフラの整備がますます進められていった。また、台湾人の皇民化政策が採られ、日本語の使用推進、日本語名への改姓奨励、神社参拝の強制が行われた。漢文化から日本文化へ生活習慣を変えた模範家庭の子女は、日本人と同じ教育を受けられた。それは、台湾人の伝統文化を破壊する政策だったが、日本国民としての地位向上を促進するものでもあった。

台湾人の地位をより高めたのが、兵員としての徴用だった。太平洋戦争開始後の戦線拡大と兵員不足により、台湾人の軍事協力は必須となった。若者が、初めは志願兵として、後には徴兵制により徴用されるのに合わせ、台湾人が衆議院議員として国政に参加できる法改正が行われたのだ。台湾から徴用された兵士の中には、霧社事件で日本軍を手こずらせた山地原住民の部隊「高砂義勇隊」もおり、優れたゲリラ戦術をジャングルの広がる南方の戦場で展開した。

戦時の15年ほどで急速に日本に同化した台湾島の人たちだったが、誰一人衆議院議員となることはなかった。日本は連合国に負け、台湾人は昨日までの敵国中華民国の国民に編入されることになった。祖国への復帰だったが、そのアイデンティティは新たな挑戦を受けることになる。

 

 

 

台湾島の話I

二・二八事件

 

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二二八和平公園

 

1947年3月1日、中華民国国民政府主席である蒋介石から、行政長官兼警備総司令官として台湾統治を託されていた陸軍大将陳儀は、怒れる台北市民代表団の要求受け入れを強いられていた。  

きっかけは、前々日に起きた。闇タバコを販売していた女性に対し、取締員が商品と所持金を没収した上に銃で頭部を殴打、それに憤激した周囲の群衆が取締員に攻撃を加えた。取締員は逃走しながら発砲し、運悪く無関係の市民に銃弾が命中、即死させてしまう。群衆は激昂し、翌日、行政長官公署へ押しかけて抗議した。これに対し、憲兵隊は機関銃で群集を掃射、数十人の死傷者が出る。事態は一挙に緊迫し、警備総司令部が戒厳令を布く一方、市民は放送局を占拠、全台湾に事件の発生が知らされた。軍・憲兵・警察が鎮圧を目論むも、台湾全土で国民政府とその官憲に対し反抗の火が燃え上がった。

日本の敗戦に伴い、中華民国政府はカイロ宣言に依拠して、米軍の支援のもと台湾を占領、行政長官陳儀は日本の台湾総督府からその統治機構を継承し、公営・民営企業の莫大な財産を接収した。当初、この島の多くの者が日本からの「祖国復帰」を喜び、蒋介石政権を歓迎した。

だが、来島した中国国民党軍兵士の士気の低さとわびしい身なり、劣悪な装備に人々は驚愕する。中国本土の共産党軍との内戦で、無残に疲弊していた兵士たちには強姦・強盗・殺人を犯す者が多く、人々の期待は急速に失望へ変わった。更に、接収した台湾の資材を官吏たちが私利によって横領し、上海市場で売却したことで物価が高騰、インフレにより企業は相次いで倒産し、失業者がこの島に溢れた。農産物も内戦中の中国へ移出され、食糧不足が深刻化した。また、台湾人を同胞と呼びながら、政府機関の管理職に台湾人を就けることはなく、日本の高等教育を受けて育った近代的知識階級が、学識と能力の劣る中国人官吏の下で働かねばならなかった。

鬱積していた人々の不満が爆発したのが、2月28日だった。群衆の反抗を抑えきれなくなった長官陳儀は、市民代表団に行政改革を約束する。だが、3月8日、本国から重武装の増援部隊がやってくると、一気に反撃と大粛清を開始する。人々は機関銃に倒れ、拘束された者は鼻や耳を削がれた。手に針金を通された数人が一組に繋がれ、海や川へ捨てられた。事件に関与しなかった者でも、高等教育を受けた知識階級の多くが逮捕され、拷問を受け、裁判もなく処刑された。

日本統治下の法治主義に慣れた台湾の、あらゆる前提と期待と希望が覆され、約2万8千の命が奪われた。この後40年続く戒厳令の下、国民党政権による独裁体制が布かれる。

 

 

 

台湾島の話J

蒋氏政権

 

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父・蒋介石(右)、子・蒋経国(左)

 

第二次世界大戦終結後、中国本土における共産党との内戦に敗北した蒋介石率いる国民党・中華民国政権は、1949年、60万の大軍と共に台湾島に逃れた。蒋介石を支援してきたアメリカ政府も、こうした国民党の失敗の原因はその腐敗と無能にあると断じ、台湾の中華民国は見限られようとしていた。だが、1950年に始まる朝鮮戦争が蒋介石を救った。反共産主義陣営の一角としての地位が認められ、アメリカは第七艦隊を台湾海峡に派遣し、中国共産党軍の台湾進攻を阻み、国民党政権への軍事支援を復活させた。

こうして台湾は、共産党の「反乱」鎮定・大陸反抗を掲げる中華民国国民党政権の実質的な領土となった。その統治は、住民に対する大量殺戮を引き起こした二二八事件以後40年続く戒厳令の下、言論・結社の自由を大幅に制限した国民党の一党独裁体制であった。共産主義を毛嫌いしていた蒋介石であったが、国民党をソ連のレーニン式政党へ改編して直系の配下で中枢を固め、一元的な支配体制を実現していった。その体制作りには、彼の長男であり10年以上のソ連留学経験を持つ蒋経国の辣腕が大きく寄与した。

蒋経国は長らく特務機関の長として、台湾社会の隅々まで秘密警察の網を張り、知識人を中心とする共産主義者や反国民党派の摘発に力を発揮した。密告が奨励され、台湾人同士が疑心暗鬼に陥り、冤罪を含む大量の「罪人」が生産された。その結果、人口1割程の大陸出身である外省人が9割の台湾内省人の上に立つ、蒋親子の独裁体制が強固なものになった。台湾内での政治活動は危険となり、知識人・運動家は日本やアメリカに渡って台湾の民主化・独立を求めるしかなく、一般住民は経済に専心するしかなかった。

国民党独裁の中華民国台湾だったが、その政権が生き延びるためには政治の安定だけでなく、経済の再建・復興も欠かせなかった。まず、国共内戦下の危機的なインフレは、中国元との関係断絶、4万台湾元を1新台湾元とする幣制改革で切り抜けた。また、土地改革により地主の土地を小作人に払い下げ、農民の購買力を高めてその人心懐柔に成功した。地主は農業資本家から工業資本家に転化し、工業化が促進された。勤勉な住民、日本統治期に整備されたインフラ、アメリカの援助と日本の借款、ベトナム戦争「特需」、外国や在外華僑からの投資など、幾つかの要因に恵まれ、台湾の経済は発展していく。

1973年、大陸反攻の党是を捨てて経済投資に専念した蒋経国の「十大建設」が始動し、重工業の飛躍的発展「台湾の奇跡」が実現した。こうしてこの島は、アジアNIESの旗手となるのだった。

 

 

 

台湾島の話K

台湾人政権

 

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李登輝

 

1971年7月、ニクソン米国大統領の特別補佐官キッシンジャーが秘密裡に中国を訪問し、周恩来首相と会談、その帰国後に大統領がテレビで世界に、中華人民共和国との関係正常化のため訪中することを宣言した。中国がソ連と対立する状況下で、「敵の敵は味方」という米中両国の戦略的利害が一致したことによる国交正常化だったが、国民にも各国にも内密に進められ、日本などは放送3分前になって初めて電話で駐米大使が知らされた。この出来事は、後にニクソンショックと呼ばれる。東西冷戦下の外交革命となる歴史的事件だった。

朝鮮戦争以来、中華人民共和国と対立関係を維持し、台湾の国民党政権を支持してきたアメリカが、共産党政府を中国の正統な政権と認め、1979年に国民党台湾と断交した。国連から脱退し、各国との国交を失った国民党政府は、当然ながら国際社会から孤立することになったが、奇しくもこの状況が台湾に民主化をもたらすことになる。台湾は、アメリカ、そして日本の支持を失い、苦境に立たされるが、アメリカが「米華共同防衛条約」に代わり国内法の「台湾関係法」を制定し、国民党政権ではなく「台湾住民」と米国の関係を維持することにしたため、台湾島の経済的、軍事的な危機は回避された。しかも、この法律には全ての台湾住民の人権を守ることが明記され、後のレーガン大統領による、台湾の民主化促進を台湾当局に求める勧告へとつながったのだ。

だが、アメリカのこうした動きの背後には、二二八事件以後、日本やアメリカで台湾の民主化と独立を訴え続けた在外台湾知識人による米国政府へのロビー活動と、台湾で命がけの政治運動を続けてきた国民党外人士の血の犠牲があった。アメリカの要請を無視できなくなった中華民国総統の蒋経国は、国民党以外の政党容認、戒厳令の解除、政権世襲と軍政の否定など、自ら築いた開発独裁専制体制を捨てて、民主化と自由化へ踏み出す決断をする。それは、一党支配を続ける共産党中国に対し、台湾が独自のアイデンティティを維持していくための布石でもあった。重病を患いつつこれらの決断をした後、蒋経国は世を去る。そして、純台湾人で日本統治時代の京都大学出身知識人でありながら、蒋経国の信任を得て副総統の座に就いていた李登輝が、反対派を抑えて総統と党主席の地位に就き、権力を掌握、民主化を推進していく。

1996年、李登輝は台湾史上初の総統選挙を実施し、民衆に選出された。それは、オランダ統治以来ずっと在外勢力に支配されてきたこの島に、初めてこの島の住民による政権が誕生した瞬間だった。