2017年度特別コラム「心と脳の帳尻」

デイヴィッド・マクレイニー『思考のトラップ』より

 

 

 

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第一回

ブランド忠誠心〉

 

アメリカのベイラー大学で、無印のコップにコカコーラとペプシを注いで被験者に飲ませ、脳をスキャナーで測定する実験を行いました。すると、スキャナーの表示からはペプシをおいしく感じたと判断されたのに、今飲んだのはペプシだと告げられると、脳から快感の信号が消え、どちらがおいしかったかという質問には、コカコーラの方がおいしいと答えた人たちがいたそうです。彼らコカコーラの愛好者たちは、初めの快感に対しては嘘をついていると言えますが、全ての後では本当にコカコーラの方がおいしいと感じています。つまり、コカコーラに対する忠誠心により、その感情に合わせて脳が記憶を書き換えたため、味覚ではペプシをおいしく感じたのに、自分自身にそれを認めることが出来なくなったわけです。

こうしたブランド忠誠心は、どうしても必要なわけではない商品で、しかも高額になればなるほど強くなります。なぜなら、それを選択したということを正当化しなければ、自己イメージに傷がつき、心に矛盾が生まれ、神経に負荷がかかるからです。

大事なのは、MacとWindows、iPhoneとAndroid、サムスンとソニー、どちらの製品がどれだけ優れているのかではなく、自分はそれを所有する様な人間なんだぞと、思えることです。「自分がいま持っていないものに比べ、持っているものの方を好ましいと思うのは、そもそも買うときに合理的な選択をしたから」ではなく、「自分の持っているものを好ましいと思うのは、自己意識を守るために過去の選択を合理化しているから」ということです。脳は出来るだけ身体に加わるストレスを取り除こうとし、常日頃、私たちの心をうまくだましてくれているわけです。

ブランド忠誠心は、車や服や家具やアクセサリーなどの商品に限りません。本や映画や音楽、スポーツや趣味、右か左かといった政治的信条など、それに費やした時間や労力が無駄なものだと思えないように、脳は私たちの過去の選択を合理化し、心の帳尻を合わせてくれます。それがどんなに優れているか人に主張することで、私たちは自分を説得し、納得させているのです。

脳の感情中枢が損傷し、論理でしか行動できない人は、どのブランドのシリアルを買うかという簡単なことも決められず、考え込みます。私たちの選択は多くの場合、過去の理性的判断の結果ではなく、偶然の出会いに伴う感情の高揚が決定し、脳が言葉でそれを整合化する仕組でできているようです。

 

 

 

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藁人形論法〉

 

あまり仲の良くないAさんとBさんが天気の話をしていました。Aさんは「私は雨の日が嫌いだ」と言います。それに対してBさんは「雨が降らなかったら干ばつで農作物は枯れるし、ダムは枯渇する。食べるものも飲むものもなくなって人間は餓死するが、君はそれでも雨が無くなった方が良いと言うのか」と答えました。

Bさんのこのような議論の仕方を「藁人形論法」と言います。Aさんは「雨が嫌いだ」と言っただけで、「雨は無くなった方が良い」などとは言っていません。相手の言葉尻を取って、相手が言ってもいない立場を藁人形のようにでっち上げて攻撃する、すり替えの論法です。これをやられたAさんは、意図せず人類破滅のシナリオを支持する立場に立たされてしまったわけです。

論理的矛盾を抱えている状態は私たちにストレスを感じさせます。動物は、運動神経を働かせて肉体にかかる負荷を解消したり回避したりしますが、人間の言語に関わる神経も、様々な概念の論理的な矛盾によって脳にかかる負荷を解消しようと、考えたり、議論したりします。そして、それがなかなか解消しがたいものだったりすると、無茶な論理を展開してでもスッキリしたくなったりします。

そうした無茶な論理は一般に「詭弁」と呼ばれます。特に他者との議論においては、論理的矛盾の解消だけでなく、プライドの損傷回避も神経活動の大事な目的となり、相手に負けないために論理的無茶度が上がりがちになります。そんな詭弁の一つとして人がよく使う論法の一つが「藁人形論法」です。

日本で憲法改正議論をする人に、「お前は徴兵制を復活させたいのか!」と攻撃する左派の人、選択的夫婦別姓を唱える人に、「お前は伝統の破壊と家族の解体を目指すのか!」と声を荒立てる右派の人。これら政治的議論において「藁人形論法」は盛んに使用され、テレビでも国会でもよく目にする機会はありますが、政治家やコメンテーターばかりでなく、日常的にも私たちは気づかぬうちにこの論法を使い、使われているものです。

論理のすり替えには、「人身攻撃」といって、前科のある人や、不適切発言の多い政治家との議論で負けそうになった時に、相手の意見ではなく、その人格に攻撃目標をすり替える論法などがあります。これには、尊敬する人間の議論を中身と無関係に支持してしまうという逆の危険性もあります。

 

 

 

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公正世界仮説〉

 

因果応報という言葉があります。世の中のたいていの人は、悪いことをすれば当然罰せられるべきだと思います。また、誰かが失敗したり、敗北したリするのを見ると、そうなって当然のことをその人はしたのだと考えます。犯罪や事故には、必ず原因があると信じています。

スウェーデンにあるリンショーピン大学のソーンバーグとクヌートセンが2010年に発表した研究によると、学校でのいじめの原因について生徒に尋ねたところ、大半はいじめっ子が悪いからだと答えたのですが、42%はいじめられっ子にも原因があると答えました。実際、私たちもいじめられている子を見ると、どうしてもっと歯向かわないんだとか、もっといじめられないように振る舞えばいいのにと考えます。ドラマでは、いじめられっ子が立ち上がって初めていじめっ子はその報いを受け、視聴者はスッキリします。いじめられているのは、いじめている方も悪いけれど、本人がその苦しい状況を変える努力をしないせいだというわけです。先の研究では他に、いじめを傍観している自分も悪いと答えた生徒が21%いました。なんにせよ、必ず誰かに責任があるのだと考えるらしく、社会や人間の本性が原因だと答えた生徒はもっと少なかったそうです。

世界は公平公正な場所であり、悪いことが起こるのはそこに暮らす人々に責任がある、そういう考えを「公正世界仮説」と言います。私たちは、頭で信じていなくても心の底では、正義は悪に勝つべきで、努力は必ず報われると信じています。因果応報とか、カルマといった観念も、公正世界仮説の一種です。

ところが、現実世界はもっと複雑怪奇で不合理で不条理なものです。悪いことをしても裁かれない人もいれば、何の理由もなく殺害される人もいます。生まれ育った条件によって、何の努力もなく恵まれた生活をしている人もいれば、どんなに努力しても貧困から抜け出せない人もいます。でも、そんな不条理を人はなかなか受け入れられず、何らかの原因・理由を世界に求めます。裕福な人も貧しい人も、それぞれに何か理由があってそうなったのだから、福祉や所得再分配など余計なことを政府はするべきでないと考えたりします。ある日どこかで空から原爆が落ちてきたら、落とされた方にも何か原因があるべきだ、と考えたりもします。

意識というものが矛盾を解消しようとする神経作用なのだとしたら、心が世界に原因・理由を見出そうとするのは逃れようのないことかもしれません。が、世界の公正が約束されていないことを見失うと、逆に責めを負うべき本来の原因を見逃してしまうことになります。

 

 

 

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〈分離脳と作話〉

 

人間の脳は右脳と左脳に分かれており、一般に右脳は左半身を、左脳は右半身を統率しています。また、それぞれの脳には得意分野があり、ふつう右脳は感覚情報を、左脳は言語情報を処理しています。そして、二つの脳は脳梁という神経線維の束でつながっています。

突発的な全身痙攣に襲われ、薬物療法で改善の見られない難治性てんかんの患者に対し、この脳梁を離断して痙攣を抑制する手術があります。脳梁を離断されると右脳と左脳の間で情報交換が行えなくなりますが、通常の生活はそれほど支障なく行えます。しかし、例えば右視野を隠して左視野にだけトラックの絵を見せると、「何の絵か」と聞かれても言葉では「分からない」と答えるのに、見たものを左手で絵に描くよう指示されるとトラックを描くことが出来るという、奇妙な応答をしたりします。左視野から右脳にトラックの情報は伝わっているのですが、左脳との連絡は絶たれているため、左脳はまだそれを知らないわけです。ところが右脳は情報を得ているので、左手を使って質問に答えられてしまうというわけです。

心理学者マイクル・ガザニガとロジャー・スペリーのこの実験で、人間の脳は右脳と左脳で二つの異なる意識を持ち得ることが示されましたが、この分離脳患者に対する実験には、さらなる不思議な現象が報告されています。それが「作話」です。

分離脳の患者の左視野に「鐘」の絵を、右視野に「音楽」という語を見せます。その後、「ドラマー」「オルガン」「トランペット」「鐘」の絵を同時に見せて、左手でどのカードだったか指すように言うと、左手は「鐘」の絵を示します。問題はその後です。患者になぜ「鐘」の絵を指さしたか聞くと、ある人は「さっき鐘楼から音楽が鳴るのを聞いたからだ」と答えました。別の実験では、左視野だけに「歩く」という言葉を見せたところ患者が立ち上がったので、なぜ立ったのか尋ねると、「飲み物を取りに行こうと思って」と答えました。

人間は、自分がなぜそうしたのか、たいてい分かっていません。そこで、自分の決断や感情や過去の体験を説明するために架空の物語を創り出し、しかも自分でもそれに気づきません。と言うより、感覚的、感情的に何らかの原因があって起こした行動であっても、それらの感覚や感情をすべて言葉で表現することは不可能であるため、他人だけでなく自分自身を納得させる物語を「作話」することが、左脳の言語情報処理に多くを占拠されている人間の意識には必要なのかもしれません。

言葉は真実を伝えるものではなく、真実を創るものだと言えそうです。

 

 

 

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五回

〈主観的評価

 

あなたの性格を占います。あなたは他者から好かれたい、称賛されたいと思っていますが、自分自身に対しては批判的になりがちですね。性格的な弱点がありますが、たいていはそれをうまく補っているようです。また、充分に活用されていない大きな能力を眠らせていますね。ときに自分が正しい決断を下したか悩むことがあるようです。ある程度の変化や彩りは好ましいと考え、規則や制限に囲まれていると不安に感じることもあります。自分の頭で考え、充分な証拠が無ければ人の話を鵜吞みにしませんが、自分をさらけ出すのは賢明でないと気づいていますね。外交的で愛想よく社交的に振る舞うこともできる一方、内向的で心配性で引っ込み思案になる時もあるようです。

さて、当たっていたでしょうか。これは、1948年にバートラム・R・フォアラーが実験に使った文章です。学生たちに自分の性格診断としてこれを読ませ点数をつけさせたところ、平均して85点という好成績を得ました。フォアラーが実験用に星占いの言葉を集めて適当に作ったこの文章は、どんな人が読んでも自分の性格として読めてしまったわけです。星占いや血液型、姓名判断、数秘術、タロットカードの予言は、なぜあんなに当たるのか。その理由を心理学では、上記の実験にちなんで呼ばれるフォアラー効果で説明します。つまり、ほぼ誰にでも当てはまりそうなあいまいなことを、この自分だけに該当することとして説明されると、人は信じてしまうということです。

誰しも自分には特有の何かがあると思いこみたい気持ちを抱えていますが、同時に自分で思う以上に人は似ています。同じ種の遺伝子で脳が作られ、その脳が心を生み、その心でものを考えます。文化的な違いはあるし、環境が人格を形成するにしても、深いところではクローンのように同じなのです。あいまいな内容でも、それが自分だけに向けられていると思うと、その内容と自分の知る自分についての情報を一致させるよう努めるわけです。これを心理学では主観的評価と呼びます。

心理学者レイ・ハイマンは若い頃、手相の占い師をしていました。彼の占いはよく当たると評判でした。相手を見て手がかりを探し、焦点を絞ってその人の魂を見抜く強力な洞察に至るのが彼のやり方でした。ところがある時、手相に表れたことと全く反対のことを、いつもの説得力ある口ぶりで話したところ、人々はいつもと同じように彼の能力に驚嘆したのでした。内容がどんなものであっても、自分と一致させることができてしまったようです。

この後、ハイマンは占いや霊能力を疑う懐疑論の著名な心理学者になりました。

 

 

 

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第六

〈集団思考〉

 

霊長類である人間は、生きるために群れをなします。そして外部からの攻撃や危険からその集団を守ろうとして団結し、その結束に傷がつくことを恐れます。傷をつける言動をする者がいれば、「空気を読め」と同調を求めます。それは、群れの中で群れに結びつけられた個々の神経のごく自然な反応であり、学校も会社も隣近所も、そうした神経の同調作用で平穏が保たれています。

しかし、このような集団が合議を行う時は、「複数の人が集まっているから問題は解決しやすくなる」というよりも、「同意したい、対立を避けたいという欲求のために、話はなかなか進まない」可能性が強くなります。場合によっては、決定的に不合理で危険な意思決定が容認されてしまうこともあります。こうした現象を集団思考、あるいは集団浅慮といいます。

1959年、革命によってカストロ政権が誕生したキューバは、旧政権を支援していたアメリカと対立します。その後、キューバと国交を断絶したアメリカでは1961年にケネディが大統領に就任し、前任のアイゼンハワー大統領時代からCIAが進めていたキューバ侵攻計画を承認します。

こうしてキューバからの亡命者で編成された1400人の部隊がCIAによる軍事訓練を受けて、カストロ打倒を目指してキューバ南部のピッグズ湾に侵攻します。しかし、アメリカの政権交代を跨いで進められたこの計画は、CIAの強い自信に反して形式に堕した杜撰で滑稽なもので、これにアメリカ軍の直接介入を禁じたケネディの命令なども加わって作戦は失敗、待ち構えていた20万のキューバ軍を前に兵士たちは無残に虐殺されました。更にこの事件を機にキューバはソ連に急速接近し、その核ミサイルを持ち込もうとするキューバ危機が発生して、人類は危うく核戦争に巻き込まれかけたのでした。

大統領とその顧問、CIAと軍、みな優秀な人々で多くの情報も持っていながら、発足直後の政権内での対立を避けて作戦の検証を怠り、非常に愚かな結果を招いたこの事件を、心理学者アーヴィング・ジャニスは集団思考の典型的な例として提示しました。他にも、真珠湾攻撃、朝鮮戦争、ベトナム戦争、ウォーターゲート事件など、いくつかのアメリカ政権の誤断が集団思考の例として挙げられています。

集団思考は、@集団の成員同士の仲がよく、Aその集団が孤立していて、B重要な決断を下す期限が決まっている時、起こりやすいようです。集団の合意を合理化し、会議の場では誰も反対していなかったのに、後で個別に話してみるとみんな「うまくいかないと思っていたよ」と言ったりする。しばしばあることです。

 

 

 

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七回

〈感情ヒューリステック〉

 

プラスとマイナス、○と×、「良いもの」と「悪いもの」、何かとっさに判断しなければならない時、人はこうした二項対立または、瞬間の好き嫌いで決断します。理性的で数学的で合理的で計画的な思考はコツコツ頭を使い、頭の容量を必要としますが、不合理で感情的で本能的な直観は電光石火に決断でき、時間も労力も不用です。私たちは、できるなら全て楽に済ませたいので、二項対立的な思考、二進法的な行動に傾くようです。

ネズミは毎日体重の約15%の餌を必要とし、危険を冒して探し求めます。危険と報酬を天秤にかけ、進むか退くかの二者択一を迫られる状況で、彼らは餌を求めて走り、ネズミ取りに捕まります。理性的に判断するとか、経済的な利益と身体的損失を慎重に分析するとか、そんなことができない原始的な脳でネズミは生きていますが、大脳新皮質が発達しているはずの人間も実際には同じ行動原理、進むか退くかの二者択一を、感情という形式で保持しています。それは、「良い」「悪い」を概念的に思案して判別するというより、「選ぶ」「選ばない」を考える前に決断してしまう機能です。

1982年、有能な会計士だったエリオットという男性が、眼窩前頭皮質にできた腫瘍摘出の手術をきっかけに、この機能を失いました。その結果、彼は朝着るシャツを選ぶにも、理性をフル活動してどれが最も適正か永遠に考え続けて溜息を漏らす人間になりました。どんなに合理的な思考が優れていても、感情が無ければ決断はできません。

生存本能に基づく感情的決断力は、私たちの生活に欠かせないものですが、「選ぶ」か「選ばない」、「良い」か「悪い」という二進法が、人の合理的判断にバイアスをかける時、それは「感情ヒューリステック」と呼ばれます。

天然ガス、食品保存料、原子力発電について、どれぐらい危険でどれぐらい有用かを十段階で評価するという心理実験がありました。最初の評価の後、被験者を二つのグループに分け、一方には危険について、もう一方には利点についての資料だけ見せて再び評価させると、当然のように前者は危険の点を上げ、後者は有用の点を上げたのですが、同時に前者は有用の点を下げ、後者は危険の点を下げたのでした。資料的根拠は無いのに、自分の選択を正当とするため、逆の選択が不当となるよう点数に差を付けた訳です。

合理的に判断すれば簡単には是非を決められない問題なのに、反対意見に猛烈な批判を下せる人は、感情ヒューリステックの二進法に陥っています。

 

 

 

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八回

〈自己奉仕バイアス〉

 

世界の中心はどこかと言えば、間違いなくそれは「あなた」です。世界で一番優れた人間は誰かと言えば、それも間違いなく「あなた」です。もちろん、「あなた」なんかいなくても地球は周り、「あなた」より能力の高い人はあらゆる領域で星の数ほどいるでしょう。それでも「あなた」は自分を最も高く評価する「自尊心」という生物学的仕組みを脳の中に持っています。

人は、何かに成功した時は自分の力によるとし、失敗した時は他人や状況や世界や神のせいにします。生物として自己の生命を守るため、精神において自尊心を保とうとするこうした思考は「自己奉仕バイアス」と呼ばれます。

自分は他の人より有能で、正義感が強く、愛想がよく、頭がよく、魅力的で、偏見がなく、若々しく、運転がうまく、親孝行で、平均寿命より長生きする。あるいは、そんなことを思うほど愚かでなく、自分の無能や無知を誰よりもよく自覚している。私たちはほとんど全員そう思っています。こうした考えも「自己奉仕バイアス」から生まれる傾向で「優越の錯覚」と言います。過去の自分は現在の自分より愚かで、未来の自分より現在の自分のほうが大事に思えるのも、同類の思考です。

外交やビジネスでは、交渉で双方が契約内容の解釈を巡って後になって揉めることがあります。どちらも自分にとって都合の悪い部分を見ず、都合の良い部分を膨らませてしまうため、異なる二つの内容が一つの契約として成立してしまうのです。相手のことを騙しているのではなく、これも自分を巧妙に騙すバイアスのせいだと言えます。

社会に自分と対立する意見を持つ人たちがいる時に、「彼らはメディアやネットに騙されている」と、子どもや若者や他国民などの愚かな想像上の第三者が、自分なら騙されない誤った情報に影響されることを警戒し、情報規制を求めてしまう「第三者効果」も、同じ「自己奉仕バイアス」の一つです。

人間の自己中心性を表す脳の傾向の一つとして、「スポットライト効果」というのもあります。1996年にコーネル大学で、被験者にひどく派手なTシャツを着せて教室に入っていかせるという実験が行われました。本人は教室の半分ぐらいの人が自分を見ていたと感じましたが、アンケートを取ると25%ほどしか気付いていませんでした。電車やお店の中で失策をした時、ニキビのある時、体重の増えた時、周囲が自分を見ているように思うことがありますが、本人が思うほど他の人は「あなた」のことなんか見ていないということです。

 

 

 

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九回

〈カタルシス〉

 

心の中に怒りをためておくとストレスになるから、適度に放出するべきだ、とよく言われます。サンドバッグを怒りの対象に見立てて思い切り殴ってみたり、ゲームで敵を倒しまくったり、物を壊したり、時には直接大声で怒鳴ってみたり。そうやってガス抜きをしてスッキリしておかないと、怒りはどんどん膨らんで頭がおかしくなってしまう、と言われます。でも、実際は?

古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、師のプラトンが詩や演劇は人々に愚かさを吹き込み、心のバランスを失わせると唱えたのに対し、むしろ逆だと反論しました。彼は、人が悲劇にあがき勝利に導かれるのを見れば、観客は代償性の涙を流し、興奮し、感情を吐き出して心のバランスを取り戻すと考えたわけです。人々の心に対する詩や演劇のこうした浄化作用を「カタルシス」と言います。

近代心理学の父フロイトも、精神分析によって心中の抑圧された恐怖や欲望、未解決の口論、癒されなかった傷を発見し、それを外に出すことで汚染された心を浄化しようとしました。

 しかし、実は放出しても怒りは消えず、逆に増幅するようです。アイオワ大学の心理学者ブラッド・ブッシュマンは、ガス抜きが本当に役立つか実験しました。まず、学生を3つにグループ分けし、@には中立的な論文を、Aには怒りの放出は有効という論文を、Bには怒りの放出は無意味という論文を読ませます。次に、感情を喚起しやすい妊娠中絶についての小論文を賛成か反対の立場で書かせます。そして、その論文の半分を「すばらしい」と称賛し、半分は「ひどい作文」と侮辱します。その上で、彼らに今やりたいことを選択させると、Aのグループで侮辱された学生は、@とBのグループで侮辱された学生より、サンドバッグを殴りたいと答えた割合が多くなり、褒められた学生は非攻撃的な活動を選びました。更に、侮辱された学生を二つに分け、片方にはサンドバッグを殴らせ、もう片方には2分間じっと座らせました。そして、侮辱した人を相手に、勝てば相手へ大音量を浴びせられるというゲームをさせると、前者は音量レベルを最大にし、後者はレベルを小さくしました。

実験は、怒りの放出が有効だと思えば怒りっぽいキャラになり、実際に放出させると攻撃性が増すことを示しました。怒りの放出や発散には麻薬的快感がありますが、それはむしろ怒りを表に出しがちな性格を作るだけです。

 

 

 

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十回

〈誤情報効果と同調〉

 

 友人が集まって昔話をしている。その中の二人が、ゆで卵をいくつ食べられるか挑戦し、五つ食べたところで吐き出した話で盛り上がる。が、他の一人が「それをやったのはオレだし。てゆーかオレがお前らに聞かせた話で、お前らその場にさえいなかったし。」と言い出す。そんな馬鹿な、これは確かに自分の思い出だ、いや、どうだろう・・・?

人の記憶というのはビデオのように録画されるわけではなく、録画されたテープのように再生できるものでもないと、心理学者のエリザベス・ロフタスは言います。たとえて言えばレゴのブロックのような記憶のピースが、思い出そうとする時に作り出され、その時々の状況に矛盾しない形で組み立てられるものだというわけです。

1974年、彼女は自動車の衝突事故を見せるという実験を行いました。映像を見た被験者は数組に分けられ、異なる質問をされます。「激突した時、車のスピードはどれぐらいでしたか」「衝突した時、車のスピードは・・・」「ぶつかった時、・・・」「当たった時、」「接触した時、」それぞれに異なる質問を受けた各組の答えた時速(マイル)の平均は、「激突」が40・8、「衝突」が39・3、「ぶつかった」が38・1、「当たった」34・0、「接触」31・8という結果でした。質問のされ方だけで、被験者の記憶は変化しています。「ガラスが割れるのが見えたか」という質問には、「激突」の組では他の組の2倍の割合で「見えた」と答えましたが、実際の映像では一枚も割れていません。ロフタスは、こうした外部からの誤情報効果によって記憶がいかに組み替えられるものかを示し、抑圧された記憶を掘り起こす精神分析や、犯罪の目撃証言・容疑者の面通しなどを批判しました。

記憶はまた、同調という本能によっても書き換えられます。心理学者ソロモン・アッシュは、一本の線を描いたカードを見せた後に、同じ線の上下にそれより短い線と長い線を加えた三本線が描かれたカードを何組か見せ、どれが初めのカードの線と同じかを数人へ同時に聞く実験をしました。何もしなければ間違えるのは2%だけでしたが、グループの中に役者を混ぜて誤った答えを言わせると、75%の人が少なくとも一問は答えを間違えたそうです。

自分は独立した人間で、独立した記憶と精神を持っていると考えていても、人は群れで生きる動物です。記憶を同調したほうが、群れとしては合理的。

あなたの記憶も思い出も、ほんとうにあなたのものですか?

 

 

 

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十一回

〈消去抵抗と学習性無力感〉

 

等速直線運動をする物体の速度を大幅に速くしたり遅くしたり停止させたりするには、大きな力が必要になります。同じように、動物の習慣化した行動を大幅に変えるには、大きな荷重を神経系に加えなければなりません。人間だって、ダイエットや禁煙はそれまでの習慣を大きく変えることなので、ある一定以上の力が必要になります。それは、習慣を維持しようとする「消去抵抗」を上回る力です。

動物の習慣的行動は、条件づけによって形成されます。条件づけとは、「こうすればああなる」という因果を学習させることです。特に「これをすればあれがもらえる」「これをしないとあれがもらえない」というように、報酬や罰によって自発的な行動が強化されることは、オペラント条件付けと言います。心理学者のバラス・スキナーは、このオペラント条件付けにより、ネズミにレバーを押すと餌がもらえることを学習させたり、鳩に単語を覚えさせたり、複雑な仕事を条件づけることに成功しました。そして、人間の行動もすべて条件づけによるもので、合理的思考によって行われるのではないと考えました。

一度条件づけられた行動も、報酬が与えられなくなれば行われなくなるのですが、すぐには消去されません。給料をもらっていた社員は、給与がもらえなくなると、ではさようならとすぐに会社を去りはせず、労働者の権利を守ろうと戦います。おいしいケーキを毎日食べていた人も、ダイエット開始の2,3日後には全身が抵抗を始め、再びケーキを食べてしまいます。身体に条件づけられた習慣を消去するには、この抵抗力を超えなければならないわけです。

習慣は甘い報酬による強化で形成されますが、一方で、どんなに抵抗しても自分では取り除く術がないと思われる苦痛が続くと、動物は抵抗するのをやめて「学習性無力感」に陥るようです。

1965年にマーティン・セリグマンは、ベルを鳴らすと電気ショックが加えられるという条件づけを、抵抗できない状況で犬に行いました。その後、フェンスを越えて隣の部屋に行けば電気ショックを回避できるようにしたのに、ベルを鳴らしても犬は身をこわばらせながら電気の痛みに耐えていたそうです。

自力では解けないような課題を与え続けると人間も諦念を持ち、挑戦することをやめてしまいます。この習慣を絶つ方法は、小さくても解決できる課題と解決する経験を持たせ、無力感をはね返す力を取り戻させることです。

 

 

 

 

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十二回

〈代表性ヒューリスティック〉

 

動物は自らの生命維持に矛盾する状況が立ち現れた時、その矛盾を解消しようと神経系統が働くことで「動く」生き物です。しかし、こうした感覚神経と運動神経による矛盾解消の作用が働く時、神経細胞には負荷がかかります。この負荷がかかっている状態がいわゆる意識だとすると、身体はできる限り早く負荷をなくして無意識に戻りたがるもののようです。

このように、神経の負荷をなくそうとする傾向は、身体の運動だけでなく、精神活動にも当てはまります。1973年に発表した論文で、ダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーはこの傾向「代表性ヒューリスティック」について述べました。では、ここでクイズです。「ドナルドは大学時代、成績優秀だったが独創性には乏しかった。人並外れて几帳面だが、その文章は感情に乏しく、SFの話をよくする。人付き合いは苦手だが、倫理観は強い。」これは、30人のエンジニアと70人の弁護士の中からピックアップしたある人物の性格描写ですが、ドナルドはエンジニアでしょうか、それとも弁護士でしょうか。

たいていは、彼をエンジニアだと答えます。しかし、実際には70%の確率で弁護士のはずです。人は思い悩むことを省略できる「代表制」によって予測し、確率を無視してしまうのです。   

初対面の人に会った時、その人がどんな人なのか分からないカオスのままだと判断が下せず、神経は張りつめて休まりません。そんな時に、神経細胞に安らぎを与える役割を果たすのが、偏見やステレオタイプといった「代表性」です。相手の職業が弁護士だったらこんなキャラ、技術者だったらこんなキャラ、医者だったら、運動選手だったら、芸人だったらと、なんとなくその人物の性格に判断を下すことができます。もちろん、職業だけで人格が決まるわけではないということも分かってはいますが、それでも私たちはこうした偏見を頼りにし、人種、宗教、民族、国籍、県民性などで相手の人物像をなるべく早く決めてしまいたがるものです。

既に持っているイメージをもとにして判断を下すことを「予断」とも言いますが、これによって誤った判断や差別が引き起こされる可能性は十分にあります。先の例でも、客観的にはドナルドは弁護士である確率の方が高かったのですから。 

とはいえ、人類はこれまで森羅万象に名前を付けてイメージを共有し、それをみんなが道具として活用することで、生命に襲いかかる矛盾を解消してきました。偏見は危険ですが、カオスに秩序を生み出し、文明を築くことこそ、私達ホモ・サピエンス最大の能力でしょう。