2020年度特別コラム

「倫理記号の恣意性」

参考文献「これからの正義の話をしよう」

           マイケル・サンデル 著

 

 

 

 ソース画像を表示ソース画像を表示

フェルディナン・ド・ソシュール()と孔子()

 

第一回

言葉と倫理の恣意性〉

 

「言語記号の恣意性」という言葉があります。19世紀のスイスの言語学者ソシュールの考えで、言葉とは、それを表す音声・文字(シニフィアン)と、それによって表される意味・概念(シニフィエ)が、合理的な必然性を必要とせずに結び付いて出来ているという考えです。

例えば、「イス」という音声は、「人が座るための台」のことではなく、「食事や仕事や勉強をするための台」のことであってもよく、「ツクエ」という音声は「体を横たえて寝るための台」のことであってもよかったわけですが、たまたま何となく勝手気ままに(恣意的に)現在のような組み合わせになっている、ということです。

この考え自体は、「そりゃそうだね」とすぐに納得できるものだと思います。日本人みんなで、ピーマンのことをナスと呼び、ナスのことをピーマンと呼んだって、みんなでやれば何も怖くはありません。でも、ソシュールが言う「恣意性」はそれだけで終わりではありません。

どこかの星から手も足も腰もないボール型の体の宇宙人が地球へやってきて、日本語を勉強するとします。その時、同じ台状の形をした物体を、イス、ツクエ、ベッドと言い換えていることを知ったら、その宇宙人は「Why,Japanese people⁉」と叫び出すかもしれません。人間は、同質なモノやコトを別々の音声(シニフィアン)で名づけることにより、それぞれを私たちには異なる価値(シニフィエ)を持った存在に見立ててしまいます。そして、その言葉を知らない者には理解不能な独自の現実世界を、言葉で作り出すことが出来るのです。

こうした言葉の恣意性に似た性質を、倫理について説明した人が二五〇〇年前の中国にいました。儒教の祖である孔子です。倫理とは、道徳やモラルに近い意味の言葉で、人間としてしなければならない行動基準のことです。「仁」=【思いやり】と「礼」=【その表現】の結びつきで倫理が出来ていると孔子は言いました。これは、言葉が意味・概念とそれを表す音声・文字で出来ているのに似ています。思いやりを表現する方法はいろいろなので「仁」と「礼」の結びつきは恣意的だし、たくさんの礼儀作法が生まれると、表現される思いやりの種類も増えていってしまいます。

このように倫理は根源的な恣意性を持っているため、人間の心には困ったことが起きてしまいます。「伝染病が流行してるんだから外出を控えるのが思いやり」という考えが生まれる一方、「そんなことしたらいろんなお店が困ってしまうじゃないか」という考えも生まれます。何が正しいか、悩み、惑い、葛藤するのは、私達の心が背負う宿命なのでしょう。

 

 

 

 

「これからの正義の話をしよう」 

マイケル・サンデル著

 

正義の色分け〉

  

電磁波の中の十兆分の一に満たない可視光を、周波数の高い方から赤、橙、黄、緑、青、紫など更に色分けして、私たち動物は周辺環境を把握するのに活用しています。しかし、人間が「赤」と呼ぶ波長と、「橙」と呼ぶ波長の間には明確な境界線がありません。赤と黄、橙と緑など明らかに違う波長の光を反射する物体であれば誰もが同じように色分けできますが、どこまでが「青」でどこからが「紫」なのか決めるのは悩むところで、人によって判断は異なることでしょう。

倫理における正義と不正義の色分けにも、同じことが言えます。どこまでが正義で、どこからが不正義か、そこに境界線を引くのは難しいことです。

あなたが路面電車を運転しているとします。気が付くと、前方に五人の作業員が工具を持って線路に立っていました。ところが電車のブレーキが急にきかなくなり、このままではあなたは確実に彼らを轢いて死なせてしまいます。その時、右へと逸れる待避線が目に入ります。五人を救うにはあなたはそちらへ電車を向けなければなりません。でも、そこにも作業員が一人立っていて、そちらへ進めば確実に彼を死なせることになります。あなたならどうしますか?

これは「トロッコ問題」と呼ばれる有名な倫理学上の課題ですが、多くの人は葛藤の末により多くの人命を守る選択肢を選ぶようです。そこでもう一つ、今度はあなたが運転士でなく、暴走する路面電車を鉄橋の上から見ている傍観者とします。電車の前方にはやはり五人の作業員が電車に気づかず作業をしています。ふと隣を見ると大変太ったあなたより体の大きな見ず知らずの人が立っていました。あなた自身の体では電車の暴走は止められそうにありませんが、隣の人の太った体を線路に突き落とせば確実に電車を止めらそうです。あなたはその人を突き落としますか?

この場合、同じように五人を救うために一人を犠牲にする行為であるにもかかわらず、あえて殺人を犯すことは不正義だと感じる人が多いそうです。では、作業員が五人ではなく五十人だったらどうでしょう。あるいは、その太った人が死の運命にある作業員たちを見てゲラゲラ笑っていたとしたら?

更に、あなたが一国の首相だとします。あるウィルスが流行し、感染者の二%は確実に死んでしまうとします。感染を防ぐためには経済活動を封鎖しなければなりません。しかし、そうすれば経済危機によりたくさんの命が失われます。あなたなら、どうしますか?

 

 

 ソース画像を表示

ジェレミー・ベンサム

 

最大多数の最大幸福〉

 

イギリスの道徳哲学者ジェレミー・ベンサムは、道徳の至高の原理とは苦痛に対する快楽の割合を最大化することだという、功利主義の原理を確立しました。人間がとるべき正しい行いとは、快楽や幸福を増やし、苦痛や苦難を減らす、「効用」の最大化であるというわけです。

1884年、ミニョネット号というイギリス船が沈没し、ボートで漂流していた四人の船乗りたちが、水も食料もない限界状況に追い込まれた結果、悲惨な効用の最大化を迫られました。衰弱して死の淵にあった一人を二人が殺害したのです。残り一人は殺人に断固反対したものの、共に死体を食料とし、三人は生き残りました。数日後に救出された三人は、当局に事実をありのままに告げて逮捕されます。殺人を犯した二人が起訴され、反対した一人は釈放されました。裁判の結果、二人には死刑が宣告されますが、ヴィクトリア女王の特赦により禁固六ヶ月に減刑されました。

二人の殺人行為は、現代では緊急避難と呼ばれるもので、非常事態における違法行為は、それによって生じた損害より、避けようとした損害の方が大きい場合、罪に問われないことになっています。この当時のイギリスでは、まだその制度が論争中で法制化されていなかったため、殺人罪が適用されたのでした。

ベンサムは、公的諸政策の根底に置くべき道徳原理として、「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化するべきだ」とし、幸福計算を提唱しました。これは、データを集めてある行為の生む快と苦の量を計算し、その量によって政策の善悪を決めることです。この計算に基づけば、ミニョネット号の例でも、殺人を犯した二人の行為は正しかったことになります。では、殺人に反対したもう一人は間違っていたのでしょうか。

ベンサムの功利主義を継ぎ、これを改良しようとしたジョン・スチュワート・ミルは、人間の自由意志を重視し、幸福の量よりも質に基づく道徳原理を説きました。「人間は、自分の望む行為が他者に危害を加えない限りにおいて、好きなことをすることが出来る」というのがその主張です。

「ゲド戦記」で有名な、アーシュラ・K・ル=グウィンが「オメラスから歩み去る人々」という小説を書いています。あるところに、オメラスという幸福に満ちた豊かな町がありました。しかし、町の片隅の不潔で劣悪な地下室には、なぜか知能の低い一人の少女が閉じ込められています。少女は「ここから出して」と訴えているのですが、人々に無視され続けます。この町の幸福は、この少女の犠牲と引き換えに与えられていたからです。少女を救えば、町の人々がみな不幸になるよう定められています。ほとんどの人々は時折思い出したように言い訳をしながらも、町の幸福を享受し続けます。ところが、中にはそれを恥じて、この町を歩み去る人々もいます。

あなたなら、この町に居続けますか?

それともオメラスから歩み去りますか?

それとも、少女を救って町中を不幸にしますか。

 

 

 

 ソース画像を表示

《自由至上主義》のロゴ

 

第四回

〈リバタリアニズム〉

 

歴史の教科書には、国王や貴族に奴隷的拘束を強いられていた民衆が、自らの選択と決断によって生きる「自由」を求めて革命を起こす姿が記されています。イギリスの市民革命やアメリカ独立戦争やフランス革命は、近代社会の誕生を象徴する出来事ですが、これらの革命で人々が獲得を目指した最も重要な権利は「自由」でした。そして、権力によって奴隷的に拘束される牢獄のような状態は否定され、自らの意志で行動できることが、現代の人権思想の根本原理となったのでした。

しかし、社会全体の利益を追求する時には、この「自由」が制限されても仕方がないという考え方もあります。例えば、感染力の高いウィルスが流行して人々の命を脅かす時、人間の自由な移動・行動がその繁殖を拡大してしまうなら、それは制限されなければならないという考えです。あるいは、社会全体の発展を促進するためには、指導者が強い権限を発揮して様々な政策を進めていかなければならないため、その体制に批判的な言動は厳しく取り締まるべきだという考えです。

こうした「最大多数の最大幸福」を追求する考え方に対し、それよりも個人の「自由」が優越するとして、他者の自由を制限しない限りどんな行動も認められるべきだと考える思想を「自由至上主義・リバタリアニズム」と言い、この思想を掲げる人々はリバタリアンと呼ばれています。

リバタリアンは、自由を制限するどんな制度も法律も慣習も宗教も全て排除していくべきだと主張し、国家による道徳的規制に反対します。そして、職業選択の自由、信仰の自由、言論の自由、婚姻の自由が認められるべきであるように、働かない自由、信仰を否定する自由、性的・暴力的表現をする自由、同性婚の自由を越えて他の動物と婚姻する自由なども、制限されてはならないと考えます。妊娠中絶が制限されるべきでないのと同様に、自殺する自由や、依頼されれば自殺を助ける自由も人間にはあり、命を捨てても自分の臓器を売る自由さえあると言います。

彼らは、国家による経済的自己選択権の侵害を強く批判し、福祉政策のために税金や社会保険料が徴収されることに反対しています。貧しい人々や身体的ハンディキャップを持つ人々の救済は、国家がやらずとも、マイクロソフト創始者のビル・ゲイツや大投資家ウォーレン・バフェットなどの富豪が自ら好んで行うため、税の徴収による労働意欲や消費意欲の抑制は経済にとって害があるだけだと言うのです。

世界一の先進国であるアメリカ合衆国に現在も公的健康保険制度が無いのは、こうした原理的な自由主義に対する強い信仰があるためだと考えられます。

 

 

 

 ソース画像を表示

二度の世界大戦で使われた

アメリカの募兵ポスター

 

第五回

〈効率・自由VS道徳・公平〉

 

ポンペオ米国務長官が七月二十三日に、中国の人権抑圧・領土拡張・経済的不公正と、その理念的基盤であるマルクス・レーニン主義に対し、宣戦布告とも解釈できる演説を行ったことで、新型コロナウィルスで混乱の中にある世界は新冷戦時代へ突入することになりました。現代の世界には、エリート階級が政策決定の権限を独占する体制と、自由と民主主義を標榜する体制の二種類の国家に分類することができますが、中国は前者、アメリカは後者の正義を代表する国家だと言えるでしょう。

しかし、中国の不正義を糾弾したポンペオ氏のアメリカの中にも相矛盾する複数の正義があり、必ずしも一枚岩とは言えません。自由と民主主義を標榜する社会の正義の一つには、最大多数の最大幸福を目指して経済的効率性を高めようとする功利主義や、他者の権利を侵害しない限りあらゆる個人の自由を認めるべきだと考えるリバタリアニズム≪自由至上主義≫があります。

例えば、アメリカの軍隊ではベトナム戦争まで徴兵制が実施されていましたが、全国民が兵役の義務を持ち国家の防衛に責任を負うべきだという考え方に対して、功利主義やリバタリアニズムはそれぞれの立場で異議を唱え、金銭を支払って兵役の義務を他者に代行させるという南北戦争時代の制度の正当性を主張します。 

まず功利主義は、金銭を支払う者はそれによって兵役を回避するという利益を得るし、兵役を代行する者はそれによって金銭という利益が得られるため、双方の幸福が最大化されていると言います。またリバタリアニズムは、双方が自分の意思で多額の金銭を支払ったり、兵役を代行したりしている以上、この制度は自由の原理に適合していると言います。

その一方で、アメリカには両者の主張に対する反論もあります。その一つは、「兵役は国民が平等に負うべき義務であり、民主主義国家においては、あらゆる階層の人々とその愛する伴侶や子供や孫の全てが戦場に行かなければならない可能性があればこそ、政策決定者も簡単には戦争を起こせないのだ」というものです。平等な兵役こそ戦争を防ぎ平和を守るという論理です。イラク戦争では、戦場に赴いた志願兵の多くが低所得者層で、戦争を主導した政治家など富裕層の割合は低かったという事実があります。兵役の平等が崩れた社会は戦争を起こしやすい一面があるのです。また、兵役代行を引き受ける者の多くが金銭的に貧しい階層出身だという事実は、徴兵回避が貧しい者を奴隷的拘束に置くのと同じ状態になることを示しており、自由の原理にも矛盾しています。

経済効率や自由という正義と、道徳や公平という正義が、ここに対立しているのです。

 

 

 

 ソース画像を表示

イマヌエル・カント

 

第六回

自由って何?

 

現代の国際社会は、人権を守ることが最大の正義とされています。そして、人権の中でも第一に尊重されるのは自由権ですが、そもそも自由とは何なのでしょう。

一般的には、誰かに強制されることなく自分の思うように行動することが自由だと考えられています。あらゆる価値よりも自由を貴ぶことを正義と考えるリバタリアン≪自由至上主義者≫は、自由についてのこうした考え方を徹底し、特に経済活動の自由を掲げて、ビジネスに制限を加える権力を批判し、市民の財に税を課す政府を泥棒と呼びます。また、ロックやパンクなどの音楽に代表されるカウンターカルチャーは、社会の中にある様々な支配構造を破壊して、全ての人々が自分の望む生き方の出来る世界を理想とします。

しかし、現代の自由主義思想の源流となったヨーロッパの近代哲学には、現代人の考える自由とは対照的な自由の概念がありました。十八世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントの考えた自由とは、自然法則に支配された生理的な欲求に対する自由、欲望の意のままにならず道徳的に行動する自由でした。人間以外の動物が自然法則である本能に支配されて行動しているのに対し、理性を持つ人間だけが自らの生理的な決定から自由になれる存在なのだと、カントは言ったのです。

彼は、理性に沿った自由意志による行動にも二種類あると説明します。一つは仮言命法と言い、何らかの欲求を果たすために必要なことを理性で判断し実行することです。もう一つは定言命法と言い、理性の定める道徳律に従って行動することを指します。仮言命法は「欲求を果たすため」という条件を常に伴い自然法則の支配下にあるため、真の自由な行動とは言えませんが、定言命法は無条件に倫理的理性に沿った行動になるため、自己の内なる自然法則から完全に自由な状態となります。

重力の下で今あなたが手にしているものを手離せば、その物体は床に落ちるでしょう。人間ならだれでも共通した理性的認識に沿ってそう判断します。理性とはそのように、あらゆる人間に共通した認識をもたらします。道徳についても、同じ条件の下では人間には共通した実践理性が働くため、道徳律は人類普遍なものであるとカントは考えました。そして、「汝の意志の格律が、常に同時に普遍的法則となるように行為せよ」と言います。「格律」とは人間がそれぞれに持つ自己の判断基準であり、それが万人の共有する倫理基準と矛盾しない定言命法に適ったものとなるように行動せよというわけです。

現代の自由主義者が、自由を守ることこそ正義だと考えているのに対し、カントは、正義を守ることこそが自由だと考えていたのです。

 

 

 

 ソース画像を表示

 ジョン・ロールズ

 

第七回

〈無知のベール〉

 

正義とは、最大多数の最大幸福だと考える功利主義に対し、人によって幸福感に違いがある以上、多数派の幸福感を他の人々に押し付けるのは公正ではないと、十八世紀ドイツの哲学者カントは言います。そして、正義とは、人間に共有される実践理性が公正だと認める「仮想上の社会契約」に基づいていなければならないと考えました。二百年後、彼の考えを基に「仮想上の社会契約」はどのようにして想定すればよいかを具体的に示したのが、アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズです。

一般に契約というものが公正であるためには、契約者双方の自律的な同意と、双方に対等な利益がもたらされるという互恵性が必要です。しかし、一方の立場が弱かったり、知識が不十分であったりすることにより、公正とは言えない契約が結ばれることは往々にしてあり、双方の力関係や知識量を対等にすることは現実的にはなかなか難しいものです。では、契約に加わる人間たちから、その社会的立場、能力、性別、人種、価値観、目的に関する記憶がなくなったらどうでしょう。その場合、人はみな自分が弱い立場に立たされた時のリスクを避けるように公正な契約を相談して結ぶのではないでしょうか。それが、ロールズの提唱した「無知のベール」です。

二者間の商取引から、社会全体に及ぶ社会契約としての法律に話を発展させると、「無知のベール」に覆われている原初状態に置かれた人々は、全ての人間に基本的自由を与える原理と、どんなに格差があっても最底辺の人が生きていける「格差原理」という、二つの正義の原理を設定するだろうとロールズは主張します。自分が男か女かLGBTか、白人か黒人か黄色人種か、仏教徒かキリスト教徒かイスラム教徒か分からないなら、ゲームが始まった瞬間にどんな立場に立たされたとしても平等に自分の自由意志が尊重される社会でないと困ります。

では、財産や能力も平等にするかというと、自分が金持ちでハンサムで才能豊かな人間として生まれた場合に、それらが奪われることは拒むでしょう。そこで、一律平等な社会よりも市場原理の働いている社会の方が経済成長もあって最低限のマシな暮らしができ、その上で教育機会の平等も望めるなら、私たちは最底辺に生まれたとしても格差は受け入れるだろうと考えられます。

ロールズは、才能も、努力も、性情による道徳的貢献さえも、地位や財産と同様その人に偶然与えられたくじ引きの賞金のようなものだとし、特別に評価することはしません。野球の才能があって努力して1億円稼ぐようになった選手が、マイナーなスポーツに精進し続け一向に稼げるようにならない人よりも、稼ぎに値する人間であるというわけではありません。たまたまその才能と努力の先に賞金があるアミダくじの設定された社会だったというだけで、時代により評価は変わります。1億円稼ぐ人たちは、稼げない人たちもそのマイナースポーツをやっていけるようなルール作りに参加しなければ、次のくじ引きでは生きていけないことになるかもしれません。

大切なのは、安心してくじ引きができるよう、くじを引く前にそのルールをどう作るかということです。

 

 

 

 ソース画像を表示

アファーマティブ・アクションを求める人々

 

第八回

〈積極的差別是正措置〉

 

近ごろ、ダイバーシティという言葉が盛んに使われるようになりました。これは、「企業や公的機関などで多様な人材を活躍させていこう」という考え方を表しています。日本では、性別・価値観・障害などの面での多様性の尊重という意味合いが強いですが、アメリカでは人種差別や宗教対立が問題となってきた歴史を背景に、人種的・宗教的多様性を実現しようするための政策が長年に渡って実施されてきました。そのひとつが、社会的マイノリティを優遇するアファーマティブ・アクション〈積極的差別是正措置〉です。

一九九〇年代、アメリカのテキサス大学法科大学院では、アフリカ系やメキシコ系受験生のテスト結果に加点することで、彼らの合格枠を十五%確保するアファーマティブ・アクションを行っていました。当時のテキサス州は住民の四〇%がアフリカ系とメキシコ系のアメリカ人でしたが、彼らが法曹界で占める割合ははるかに低かったため、あらゆるグループの成員が司法に参加できるようにすることを大学の使命として、この優遇策を取っていたのです。

しかし、これに対してシェリル・ホップウッドという女子学生が異議を唱えました。彼女は白人家庭に生まれたものの裕福ではなく、苦学の末に努力して高校、短期大学、カリフォルニア州立大学を卒業し、テキサス大学の法科大学院に志願します。ところが、成績は良く、入学試験の結果も良かったものの不合格。試験結果がもっと悪かったアフリカ系やメキシコ系の学生が合格していることを知った彼女は、これを差別であると主張し、訴訟を起こしたのです。

この件以外にも、アファーマティブ・アクションに対する批判はありましたが、この政策を支持するリベラリストは、マイノリティに対する歴史的差別を原因とする白人の優遇は忌避すべきものであっても、地域社会の多様性を実現するためにマイノリティを優遇することは不当でないと考えます。平等な自由権と、最底辺の人々への分配を正義とするリベラリズムでは、大学がその使命を実現するために設けていた合否の基準により受験生を不合格にしたとしても、誰の権利も侵害したことにはなりません。大学の合格証は、合格した人物の学力や努力や才能を称賛するためにあるのではなく、社会に期待される役割を大学が果たすための入学試験という抽選くじに当選した運のいい人に与えられるものだというわけです。くじの当たりを誰が引いても、誰かの権利を侵害したことにはならず、誰かを特別に称賛することにもなりません。学習能力も努力できる気質も、視力や腕力、あるいは好奇心や負けん気の強さのように、遺伝的にたまたま与えられた当たりくじに過ぎないというのが、リベラルな考え方なのです。

とはいえ私たちは、才能や努力、道徳的美徳などが評価されないことに対して不満を感じます。試験の合格証は、学力で称賛に値する者に与えられるべきであり、称賛に値しない者に与えられるべきではないと、信じているのです。

 

 

 

 ソース画像を表示

アリストテレス

 

第九回

〈目的と美徳〉

 

現代の正義論は文化的・宗教的中立を重んじて、特定の価値観における徳や名誉といったものを、正義の議論から外そうとします。中世キリスト教社会の騎士道精神における「神への献身・貴婦人への愛」や、日本の武士道における「侍の意地・死を賭した責務の全う」などは、文化的な好みと捉え、普遍的な正しさの基準とは考えないのです。

しかし、古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、正義をそのような中立のものとは考えず、所属する社会における名誉、美徳、善良な生活を巡る論争と必然的に直結するものだと捉えていました。ロールズなど現代のリベラリストは、才能や努力や道徳的貢献を、地位や財産と同様、偶然それが評価される社会に生み与えられたものとして評価せず、公平な分配や権利を重んじますが、アリストテレスは才能や努力を優遇する差別を正義と考えます。大事なのは、どんな差別が正義かの判断にあります。

判断の基準は、政治の目的とは何かと関わります。現代の民主国家では、政治は特定の目的を持たず、市民の支持する様々な目的に応える手段に過ぎないと捉えられています。しかしアリストテレスは、当時の都市国家の市民を善良で公正な者にすることが、政治の目的だと考えていました。

すばらしい楽器は演奏されることが目的であり、その所有者にふさわしいのは金持ちではなく優れた演奏者です。すばらしいテニスコートは、テニス選手が試合をするためにあり、子どもたちが鬼ごっこをするためにあるのではありません。このように目的に適した者が正しい差別で優遇されるべきだという考えは理解を得やすいものですが、市民の美徳の養成が政治の目的だと言われても賛否が分かれそうです。

でも、人間の本質が社会的動物であり、だからこそ言語と倫理を持っているのだと考えればどうでしょう。より良い社会を実現することは、私たち社会的動物の本分であるということになるのではないでしょうか。それなら、よりよい社会を作るという政治参加が個人の美徳を養成すること、その美徳がそれぞれの社会特有の文化的価値観を抜きにしては成立しないこと、そして美徳を持つものが称賛され、持たない者が蔑視されることも、納得できるのではないでしょうか。

こうした美徳には、新しい状況の前で葛藤し、正しい善を選び取る行動の繰り返しによって身についていく実践的な知恵が必要です。それは、いつでも完全な正義であるような規範ではなく、哲学書や宗教書を読んだり講義を受けたりして身につく知識でもありません。正義を見い出す知恵とは、正しい行動を選び、節度ある行動を選び、勇敢な行動を選び、それらを習慣とする実践の中にしか生まれない、熟慮の末にあるものなのです。

 

 

 

 

    鬼滅の刃より

 

第十回

〈背負うべき責務〉

 

自分の両親や祖父母、それよりもっと上の世代が犯した罪を償えと言われたらどうしますか?世の中には家族が犯した犯罪のせいで、その親族や親戚が世間から非難され、職場や居所を失うことがあります。そんなことがあると、彼らが負わされた罰を不当なものに感じ、世間や社会を批判したくなるかもしれません。では国家が、ある時代に他の国家や民族に対して犯した侵略や虐殺などの罪について、その当時この世に存在しなかった世代が謝罪する義務についてはどうでしょう。自分が犯したわけでもない罪を償わせるのは正当なことか、不当なことか、意見は分かれそうです。しかし、企業が犯した事故や事件、公害などに対し、「経営陣が変わりましたので私どもには関係のないことで…」とその企業が主張しても、社会や法律は許してくれません。

人間は、自分が犯したわけでもない罪を、どこまで背負うことが求められるのでしょう。現代の自由至上主義やリベラリズムは、独立した個人が負うべき罪は、自分の意志で選択した行動に対するものだけだと考えます。リベラリズムの祖・哲学者カントは、個人的愛着ではなく普遍的な道徳律の命令に従い行動するのが自由だと言いましたが、本人の合意なく親から世襲された罪や責務を独立した個人が背負うのは不公正として認めませんでした。政治哲学者ロールズは、自分の置かれた社会的境遇を知らない無知のベールに覆われた状態でも合意できるのが正義だと言います。正義とは、自分の所属に負わされた罪や責務とは関係のないものだということです。

この立場なら様々な文化的・宗教的観念に対して中立であることが可能です。しかし、果たしてその様に、自分を形成している文化・宗教・コミュニティ・伝統から切り離された自由で独立した中立的精神が、普遍的道徳に従って判断したり、無知のベールの中で選択したりすることは、現実的でしょうか?バスケットでもサッカーでも、スポーツのルールとゲームは不可分の関係にあります。一方のゲームではボールを足で蹴ることがルール違反とされ、一方のゲームではキーパー以外が手でボールに触れることはルール違反となります。現実の人間の倫理も、所属するコミュニティや伝統が織りなす物語と切り離すことは不可能でしょう。同じ一つの行為が、一方のコミュニティでは道徳的と評されるのに、他のコミュニティでは不道徳と見なされてしまうことはあるものです。

漫画『鬼滅の刃』には、生まれながらに背負わされた一族の責務を全うしようとする登場人物が幾人か描かれ、多くの老若男女を感動させています。「弱き人を助けることは、強く生まれた者の責務」というノブレス・オブリージュ【高貴な者の責務】という考えは、合理主義や個人主義では受け入れられない不公平な価値観かもしれませんが、人の琴線に触れるのは、過去より続く物語を背負う者の美徳のようです。

 

 

 

   マイケル・サンデル

 

 第十一回

〈政教非分離〉

 

一九六〇年、選挙運動中のジョン・F・ケネディは、アメリカ合衆国では初となるカトリック教徒の大統領になるべく、政治における宗教の役割について語りました。アメリカはキリスト教プロテスタントが作った国であり、有権者の中にはケネディが大統領になると、カトリックの教義が押し付けられるのではないかと懸念する人々がいました。そこで彼は、どんな政策決定にも宗教的見解を入れず、良心のみに従って国益を追求すると誓いました。

その四六年後、同じ民主党の大統領候補となったバラク・オバマは、これと正反対の立場を表明しました。進歩主義やリベラリズムの説く中立は、人間の良心が伝統的宗教や道徳によって培われて、それが貧困と人種差別、無保険者と失業者などの問題を改革していく動機となっている現実を無視した、非現実的な立場だと主張したのです。

法律に対し宗教的中立性が問題になる例に、妊娠中絶やES細胞研究があります。キリスト教の保守主義は中絶を子殺しと見なし禁止すべきと主張しますが、人間の命がいつから始まると考えるかは宗教的・道徳的問題であるため、公権力は介入せずに中立で、女性自身に決定権が与えられるべきだとリベラリズムは言います。ヒトの胚の破壊を伴うES細胞研究についても、宗教的信念から禁止すべきという主張に対し、医学的恩恵を盾に科学研究は宗教的理由で禁止されるべきでないと言います。しかし、胎児や初期胚をカトリック教会が宗教的信念から人と同等と見なすのに対して、妊娠中絶やES細胞研究は、これを人と同等ではないと判断しているのは、一つの宗教的判断であり、中立的とは言えません。

また、リベラリズムは同性同士の婚姻も個人の自由に委ねられるべきだと考えますが、伝統的宗教による同性婚は不道徳だという考えを否定する以上、それも一つの宗教的判断となり、政教分離とは言えないのです。

ハーバード大学の「白熱教室」で有名な政治哲学者マイケル・サンデルは、政治が宗教的・道徳的に中立になることは不可能だと言います。あらゆる良心は、人々が属する社会・集団に継承されてきた宗教や道徳に根差しているからです。では、様々な価値観が衝突し合う現代の多元社会で意見がぶつかる時、政治はどうあるべきなのでしょう。

サンデルは、政治の中立ではなく、積極的な討議と相互理解の中で共通善を見つけ作っていく可能性に希望を見い出すべきだと唱えています。

 

 

 image

     他者に共感する神経

 

 第十二回

〈普遍の道徳的神経〉

 

 人類には多様な言語があるように、多様な倫理もあります。一方、どんな言語にも主語・述語・修飾語・接続語などの普遍的な文法構造があることは共通しており、どんな倫理も隣人の痛みに共感しこれを回避しようとする普遍的な道徳律で出来ていることは共通しています。人間には、「個体」としての欲求を実現するための利己的な神経作用とは別に、隣人とともに構成する「群体」として生きていくための利他的な神経作用があり、それが心の中で倫理的命令として響く時、利己的衝動に従うか利他的道徳律に従うか、選択する自由を持たされて葛藤するのです。

しかし、神の命令とも言えるこの普遍的道徳律は、それぞれの歴史・文化・環境に応じて具体的な形は異なって発展してきました。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教、儒教、道教など様々な宗教がそれぞれの聖典・経典により様々な具体的道徳律を提示してきましたし、それより多くの哲学者・思想家が独自の倫理観をその著述に書き記しています。経済政策の議論の場では、経済効率主義や保護貿易主義、環境保護主義が鼎立し、社会政策においてもジェンダーフリーや機会均等を叫ぶ声と、伝統回帰を主張する声がぶつかり、日本では憲法九条等について護憲派と改憲派が対立しています。その全ては利他的性格を持ちながら、相互に矛盾し対立してしまうのです。

哲学者カントは、個々の具体的な善の概念ではなく、普遍的道徳律の命令に従うべきだと言った、宗教・信条の中立性を謳うリベラリズムの祖の一人とされる存在ですが、彼自身はキリスト教徒であり、聖書に書かれたイエスの言行を道徳のモデルとしました。また、リベラリズムは、保守主義や功利主義、リバタリアニズム(自由至上主義)と対峙する思想の一つであり、他の主義や信仰を超越した中立の立場にあるとは言えません。リベラリズムの主張する中立に対し、自己の所属する共同体独自の倫理を重視するコミュニタリアニズム(共同体主義)は、信条の異なる他の価値観との積極的な対話を通して、時間をかけて共通善を創造しようとする立場ですが、それも様々な信条の一つであり、他を超越するわけではありません。

では、価値観の乱立、倫理記号の恣意性を解消する方策は永遠にないのかといえば、恐らくないでしょう。それでも、私たちは隣人の痛みを痛み、利他的に行動する神経作用を物理的に持ち、自分の責務を知る生き物です。それだけは、変わることのない普遍の事実です。