2021年度特別コラム

「生きていくこと 発達すること」

参考文献「手に取るように発達心理学がわかる本」

              小野寺 敦子 著

      「図解よくわかる発達心理学」

              林 洋一 著

 

 

 

 

 

第一回

〈子どもの発達、大人の発達

 

当塾へは、幼児教室から高校生まで生徒たちが通っており、未就学児だった子が大学生になってから訪ねて来たり、幼児から高校卒業まで通い続けたりということがあります。すると、「せんせい、じゅうたすじゅうはな〜んだ?」と幼児だった十数年前に言っていた生徒が、「光速に近づくとどうして時間が遅れるんですか?」とか言い出します。そこで、冷や汗を流しながら教師としてのプライドを保つため「えーと、光の速度は常に秒速約三十万qで〜」などと頑張って説明するわけですが、子供の成長には時に大変驚かされます。

しかし、子どもたちがそんな風に成長するまでの過程は人により様々です。心理学者ピアジェは、子供は四つの発達段階を経て大人になると言いました。〇〜二歳の感覚運動期、二〜七歳の前操作期、七〜十二歳の具体的操作期、十二歳〜成人までの形式的操作期です。でも、中学校までチビだった子が高校で急にノッポさんになることがあるように、人の心も発達時期の個人差は大きく異なります。

同じ高学年でも、「十の十倍は?」と聞かれて「百」と答えられる子と、「二十」などと言い出す子がいます。答えは正しくても、どうして「百」なのかが分かる子と分からない子がいます。そこには学習意欲や学習能力とは別の、発達段階の個人差が関わっているのですが、生徒の集中力不足だと怒ったり、自分の説明の悪さだと思って落ち込んだりすることが、教師たちには多々あります。子供の認知能力は時が経つと急に向上することがあるので、その時を待ってあげる忍耐力も必要なのですが、そこには大人の側の発達具合が試されます。

エディプスコンプレックスで有名なフロイトの性的発達段階説に、社会的視点を加えた精神分析家エリクソンは、人生を「乳児期」「幼児前期」「幼児後期」「児童期」「青年期」「成人前期」「成人後期」「高齢期」に分け、各段階で人間は解決すべき課題を抱えながらそれを克服して発達していくという「心理社会的発達理論」を提唱しました。他の動物と同様に人間も、母親の胎内にいる時から老衰する時まで、与えられた環境に適合できるように、肉体的にも精神的にも常に発達していく必要があるのです。  

課題の克服ができないと、負荷を抱えたまま生きていくことになりますが、発達には各人の遺伝的な要素や、環境による支援の有無が関わり、相互に作用し合ってもいます。大人は、子どもたちそれぞれの発達条件に合わせて適切なサポートをしながら、自らも、自身の発達課題を克服していかなければなりません。

生きることは、発達することです。

 

 

 

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〈周囲の反応により感情は発達する〉

 

幼稚園に入りたての子どもたちには、登園した時、お母さんが自分を預けて行ってしまおうとすると、それは大きな声で泣きじゃくる子がいるものです。これは一日大変だなと思っていると、お母さんの姿が見えなくなって数分後には、けろっとした顔で友達と遊んでいたりします。お母さんに寂しさ悲しさをアピールするためにわざと泣いてるんじゃないかと訝りたくなりますが、本人たちは至って真面目に悲しんでいます。ヒトは、悲しみを受け止めてくれる誰かがいてこそ、悲しくなることもできるようです。

赤ちゃんは、受精してから約四十週お母さんのお腹の中にいますが、その間にも脳の機能の大部分は出来上がり、特に感覚能力はほぼ成熟して生まれてきます。動物学者ポルトマンは、動物を感覚・運動能力が成熟した状態で生まれるウマなどの離巣性と、未熟な状態で生まれるイヌなどの就巣性に分類しています。脳が発達して体の半分を占めている人間の赤ちゃんは、産道を通りを抜けるために、体の成熟を待たずに生まれると考えられています。

母体の中でも感覚の発達は進み、特に口まわりの皮膚感覚は受胎後七週くらいで現れ、指しゃぶりや舌なめずりをして脳の感覚能力を高めていきます。生後三か月ごろから赤ちゃんは、自分の体やまわりのものを触ったり舐めたりするようになりますが、それは感覚と運動の神経接合を作っていくための大事な行動です。聴覚も妊娠約三十週でほぼ完成し、心臓などのお母さんの胎内の音に耳を澄ませ、その声も聴いています。視覚の発達は比較的遅く、目から入る光の情報が像を成していくまでには、数か月かかるようです。

感覚能力は、各感覚器官を通じて入ってくる情報が統合されながら発達していきますが、周囲の事物がなければ形成されません。感情の発達も、同じことが言えます。子供たちの人格は、肉体に宿っている気質により、「扱いやすい子」、「気難しい子」、「出だしの遅い子」に分類されますが、それは周囲の人との接触によって発達していくものです。養育者の態度が愛情と理解に富んだものなら、情緒の安定した思慮深く優しい性格が現れ、拒否的・敵対的なものなら、情緒不安定な反社会的で冷淡な性格が現れやすいとも言われます。

また、感情とは他者へのシグナルであるため、周囲が喜びや怒りや悲しみに反応してくれることで、その表出方法だけでなく、感情自体が脳内で発達していきます。養育者への健全な愛着も、周囲の反応によって形成されていくのです。

 

 

 

赤ちゃん 言葉 に対する画像結果

 

〈赤ちゃんの言葉の発達〉

 

赤ちゃんは、どうやって言葉を身につけていくのでしょう。生まれたその日から一日に十回も二十回も泣く赤ちゃんですが、気持ちを言葉で表現できない彼らにとって泣くことは最大のコミュニケーションツールです。空腹のときに泣けばお母さんがお乳をくれる、おむつが濡れ気持ち悪くなって泣けば、おむつを取り替えてもらえる。「泣く」という働きかけをして効果を得るという経験の積み重ねの中で、コミュニケーションを覚え、様々な情緒も発展していき、情緒に合わせて泣き方を変えていくという意思も育っていきます。

赤ちゃんには、お母さんなど大人の表情を見てそれを無意識に真似る共鳴動作が観察できますが、逆に、自分が笑ったときにお母さんも笑ったり、自分が泣いたときにお母さんも悲しそうな顔をしたりすると、「お母さんも同じ気持ちなんだ」と感じるようです。そして、そんなやり取りを繰り返す中で、「自分は嬉しいんだ」「自分は悲しいんだ」と自覚し、感情と表情の関係を理解していきます。

生後二か月を過ぎた頃から赤ちゃんは、唇や歯、舌、のどといった発声器官を使って音を出せるようになっていきます。そして、「アー」「ウー」などの母音から始まり、「バババ」「ムウムウ」などの複雑な音も出せるようになっていきます。こうした赤ちゃんの発声を「喃語」と言いますが、これには母国語にない音声もあり、大人よりも赤ちゃんの方がはるかに多くの音の違いに気づき、発声できるようです。例えば、生まれて十か月くらいまでは、日本人が苦手とする英語のLとRの違いを含め、ほぼ全ての音の違いを赤ちゃんは正確に聞き分けられているそうです。

しかし、一歳の誕生日くらいまでに母語の音素のカテゴリー分けを学習すると、日本の赤ちゃんならLもRも「らりるれろ」のラ行音として聞き取るようになり、イントネーションやリズムも日本語に似てきて、何らかの意図を持った発声「ジャルゴン」をするようになり、それが次第に「言葉」へと変化していくのです。

生まれたばかりの人間の脳は神経細胞が繋がっていない状態ですが、生後二年間で毎秒二〇〇万も神経細胞を繋ぐシナプスが形成されていき、二歳までにその量は一〇〇兆以上、大人の二倍に達します。でも、やがて赤ちゃんの脳はシナプスの総量を増やすことより、無用なシナプスを除去して有用なシナプスを強化する方へ、発達の舵を切っていきます。日本語環境にいる赤ちゃんなら、LやRの混じった大人たちのラ行音を聞き取るために、LとRの違いに惑わされないよう、その違いが聞き取れてしまうシナプスを除去して、日本語が使えるようになっていくわけです。

 

 

 

 

 

第四回

〈歩き、話し、考える〉

 

幼児期というのは、乳児期に比べて、成長が緩やかになります。でも、その身体には様々な変化が起きて、心臓などの臓器は三歳くらいまでに、大人同様に機能するようになります。視覚や聴覚、骨格も成長し、脳は四、五歳までに大人の脳の八割くらいまで重くなって神経ネットワークの構築が進みます。ただし、部位によって発達の進行にはずれがあり、運動野や体性感覚野の成長は早い一方、言語野は完成に二〇歳くらいまでかかるようです。

赤ちゃんから幼児への第一歩は、まさに歩くことから始まります。一歳〜一歳半までにほとんどの子が歩けるようになりますが、歩けるようになるには、筋力やバランス感覚、転んだ時に防御姿勢が取れることなどが条件として必要で、赤ちゃんは一年かけてその準備を整えていきます。身体だけではありません、二本足で歩くのは不安なことなので、心の準備も整わなくてはなりません。そのため、周りの大人が温かく見守りながら、歩きたくなる働きかけをすることも大切になります。歩けるようになると、幼児の世界は一気に広がります。周囲の石や草木や動物との距離が縮まり、興味を持ったものに触て歩く探索行動を続け、遊びながら自分の世界を広げていきます。それにより、独立心や自我も芽生えていくのです。

並行して、言葉も発達していきます。初めは単語一つの文から始まり、「ワンワン」によって、「犬がいる」や「犬が怖い」を表現しようとしますが、同じ「ワンワン」でも自分の家の犬を表すこともあれば、四本足の動物を表すこともあります。言葉の意味は、彼らの育つ環境によって異なるのです。初語を発してもすぐに言葉は増えませんが、一定の潜伏期を経ると、周囲が驚くほど爆発的に話し出し、一語文から文法のある二語文へ変わります。三、四歳までには三千ほどまで語彙が増えます。

幼児はひとり言をよく言います。これは他者を意識しない幼児特有の自己中心性とも言われますが、心理学者のヴィゴツキーは、幼児が何か思うようにできないことに直面した時に、一生懸命考えたことが口から発せられることに注目しました。ひとり言は、思考の道具として言葉を使用するようになってきたことの表れなのです。言葉で考え、言葉で自分の行動を制御しながら、やがて友達とのコミュニケーションを始め、言葉でイメージを共有する「ごっこ遊び」も覚えます。文字に興味を持つようになるのもこの頃からです。

子どもは大人の表情や動作を見ながらその言葉を真似して覚えます。そのため、語りかけが少なかったり、早口すぎたりすると、幼児の言葉の獲得は遅れる可能性があります。

 

 

 

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第五回

〈自我と第一次反抗期〉

 

反抗期というと、一般的には思春期を迎えた十代の少年少女のそれがイメージされるかもしれませんが、子育て中の親を最初に悩ますのは、幼児期の第一次反抗期です。「イヤだ、イヤだ」を繰り返すことから、「イヤイヤ期」などとも呼ばれます。乳児の時は、自分の名前を呼ばれても、別の名前を呼ばれても、笑顔を向ければ笑顔を返してくれた素直な「いい子」だったのが、感覚の発達とともに自他の区別を認知し、自分の名前を知り、自分とお母さん、お父さん、あるいは兄弟姉妹は別の存在なのだという自己意識・自我を持つようになると、「いらない!」「イヤ!」と反抗的な態度を見せるようになるのです。

この時期のわが子のわがままに、たいていの親は心が折れたり感情的に怒ってしまったりするものです。でも、この「イヤイヤ」は、子どもが自分の中に親とは違う意志があることを主張し、自立心を培おうとする、発達に不可欠な挑戦です。同時に、この時期を通ることで両親も、子どもが自分の自由になる自分の分身ではないことを受け入れます。この時、子どもの「自分でやってみたい」という気持ちが挫かれると、子どもの自尊感情が育たなくなるため、適度な援助をしつつやりたいようにさせてあげる必要があります。しかし、要求にすべて応えるとわがままになってしまうので、気をつけなければなりません。

子どもの自己意識は、兄弟姉妹の数や順位、男女差に大きな影響を受けます。

兄弟姉妹の数が増えれば、家族内の関係の数が増えます。父・母・自分の三人だと「父と母」「父と自分」「母と自分」「父と母と自分」と、四通りの関係しかありませんが、一人増えれば関係の数は十一通りとなり、より複雑な関係を経験します。

また、生まれてくる順位によって親の子育て経験値は異なるため、それぞれの子に対する養育態度も変化し、それが子どもの性格形成に影響します。知らず知らずに親は、兄や姉には下の子の手本になることを、弟や妹には上の子を見習うことを求めます。期待のされ方に応じて人の心は変わっていきます。

発達期待は男女による性格の違いも形成します。「男の子らしさ」「女の子らしさ」を親や周囲が期待することで、「男らしさ」「女らしさ」が作られるのです。

幼児は自我が強くなれば周囲とぶつかります。でも、きょうだいゲンカや友達とのケンカは、他者の視点を知り、争いの後の後味の悪さや関係改善の方法を学べる大切な機会でもあり、理性や道徳感が生まれるきっかけでもあるため、ある程度は見守ることも必要です。他者との衝突で子どもは自律を獲得します。それまでの長い道程を、辛抱強く伴走しましょう。

 

 

 

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第六回

〈発達段階と思考力〉

 

小学生の子どもたちに算数を教える大人が一番苦戦を強いられるのは、「割合」とか「速さ」とか、目で見ることのできない抽象的な概念を理解させることではないでしょうか。「つるかめ算」や「旅人算」を、教える方も追いつかないほどスラスラ解いてしまう子がいる一方で、「割り算て、何をやっているの?」といった状態がいつまでも続く子、「一〇〇の次は一〇一」だと習っても「二〇〇の次が二〇一」になることは想像もつかない子、などもいます。

小学校三〜四年生ごろ、急に算数が難しくなって理解が進んでいかなくなる問題を「九歳の壁」と言います。心理学者のピアジェによれば、思考の発達段階として、触覚や視覚や聴覚を使って運動できるようになる「感覚運動期」(〇〜二歳)、イメージや言葉を使って考えるようになる「前操作期」(二〜七歳)、形が変わっても量は変わらないという「保存の概念」など具体的事物について論理的思考が身につく「具体的操作期」(七〜十一歳)、抽象的な物事について大人と同じように論理的思考ができるようになる「形式的操作期」(十二歳・中学生以降)が想定されています。「九歳の壁」は「具体的操作期」に当たり、壁を越えられるかどうかは、この段階の発達が早いか遅いかに依存します。

発達が遅いと、「算数の出来ない子」と見なされ、本人のやる気も減退して「どうせ自分には算数なんて出来ない」という「学習性無力感」に取り憑かれてしまいます。しかし、これは発達段階の違いに過ぎず、身体の発達が遅くて体育で後れを取っていた子が、発達に伴って体力が付き、クラスで一番速かった子より足が速くなることもあるように、時とともに差が埋められしまう可能性は十分にあります。

IQの高い人=頭の良い人、というイメージを私たちは持っていますが、知能と呼ばれるものは年齢によって変化し、発達の仕方も違うものです。年齢とともに上昇する人もいれば下降する人もいて、上がったり下がったりを繰り返す人もいれば、いつまでも変わらない人もいます。天才と呼ばれた歴史上の科学者を超えるIQを持っていても、優れた功績を残せるわけではないというデータもあるようです。

子どもの学力に関して、親は何ができるかというと、学力を伸ばそうとする親の意欲が強すぎても弱すぎても、子どものやる気は損なわれるようです。高すぎる期待は、それを達成できないことで無力感を生みますし、子どもの成功に無関心だと、褒めてもらえないため刺激がなく、彼らの達成動機は減退します。

発達段階に合わせて「学びたい」気持ちを刺激する環境を整えれば、子どもは自分で学び方を工夫するようになります。

 

 

 

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第七回

〈道徳性の発達と子どもたちの葛藤〉

 

小学校では、仲間たちと遊んだりふざけ合ったりしていた時間の方が、授業を受けていた時間よりも、濃密な記憶として心に刻まれている人は多いと思います。放課後になれば、今度は近所の子供たちと年齢を超えて一緒にスポーツをしたり、探検をしたり、おしゃべりしたり。気心の知れた仲間たちと、小さく少し閉鎖的なグループを作って過ごした、あの永遠に続くようにも思えた六年間。仲間とともに遊び、喧嘩をし、守り合う中で、私達は様々な社会性を身につけました。

発達心理学では、児童が作るこうした小集団をギャンググループと呼び、その時期をギャング・エイジと名付けています。小集団は仲間内のルールを定め、それを知らない外部との間に壁を築き、ルールを破った者には冷たい制裁をします。その中で失敗を重ね、傷付きながら、子供たちは友情を育み、道徳を覚えるのです。

道徳性がどのように身についていくか、心理学では三つの理論が論じられています。一つ目はフロイトの精神分析理論で、幼児期に両親からの愛情を失うかもしれないという恐れや不安や罪悪感が道徳的行動の動機づけになるというものです。

二つ目は、バンデューラの社会的学習理論で、子供は身近な人の言動を見て、それを真似して道徳を知るというものです。穏やかな行動や、乱暴な行動を見て、その子の行動規範が形成されるのです。

三つ目は、コールバーグの道徳性発達理論です。道徳性は、@権力に服従する段階、A褒美がもらえることをする段階、B周囲を喜ばせたくなる段階、C法や秩序や権威を重視する段階、D正当な理由があれば互いに規則を改善していく段階、E規則を超えて普遍的な倫理に基づいて行動する段階、というように道徳性は発達していくというのが彼の理論です。  

しかし、女性の心理学者ギリガンは、伝統的な男性の価値観は「何が正しいか」を重視するが、それよりも周囲に対して「どのように応じるか」という「ケアの倫理」が大切だと主張します。つまり、共感や同情で動くBの段階の方が、正義で動くEの段階よりも大事だと言うのです。

子供の「いじめ」も大人の「〇〇ハラスメント」も多くの場合、集団内の「正しさ」から外れた者を叩こうとする「正義感」から引き起こされます。「足が遅いこと」、「勉強ができないこと」、「仕事が遅いこと」、「センスが変なこと」といった不正義を罰しようとする集団の「正義」に、どう立ち向かうか、或いは、そこからどう逃げるか、また、叩かれた隣人にどう寄り添うか?

子供たちは、自分の属するギャンググループの中で、大人と同様に葛藤しながら道徳と処世術を学んでいきます。

 

 

 

 

第八回

〈発達障害という個性〉

 

世界中で多くの人が、生まれながらにして障害を持っています。その中には、身体的なものだけでなく、知的障害など目に見えにくいものもあります。近年では、発達障害と呼ばれる子ども達が増えており、成人でも発達障害と診断される人が増加しています。その原因は明確になっていませんが、発達障害の診断そのものが近年になって広まり、検査される人が増えたため障害と診断される人も増えた、ということかもしれません。

発達障害には、器質性知的障害と呼ばれる遺伝子疾患、染色体異常、胎児期・出産時の問題など物理的要因のはっきりしたものもありますが、非器質性発達障害や、自閉症スペクトラム、注意欠陥・多動性障害、限局性学習障害など、原因のはっきりしないものが大半を占めています。こうした障害は、表面的には他の子と変わらないため、障害と気づかれないで大人になる子が多くいます。適当なサポートを受けられないまま集団に適応できず、変わり者とみられたり、煙たがられたり、いじめられたりしがちです。

非器質性知的障害は、IQ七〇未満が診断基準の一つで、軽度・中度・重度・最重度に分類されます。軽度では抽象的思考は困難であるものの日常生活に支障はありません。しかし、最重度になると、常に介助が必要ということもあります。

自閉スペクトラムは、社会性が乏しく、言葉やコミュニケーションに障害があり、こだわりが強いといった症状が見られ、一般的に自閉症と言われます。このうち、言葉やコミュニケーションには特に問題がない症状を、以前はアスペルガー症候群と呼んでいました。学習に問題がないため障害と認められず、先生にも友達にも「変な子」と思われ、孤立するケースが多いです。

注意欠陥・多動性障害(ADHD)は、集中力の持てない子や、授業中に立ち歩いてしまう子に見られる障害です。障害のせいなのか、不真面目なせいなのか、先生にも判断しがたく、問題児と言われがちですが、ほとんどの場合は年齢とともに落ち着きを見せます。

限局性学習障害(SLD)には、読字障害、書字障害、算数障害のほか、聞いたり話したりすることが苦手というのもあります。時間をかけてそれぞれに合った支援方法を施せば克服は可能ですが、「勉強の出来ない子」として片づけられることが多いようです。

今年パラリンピックが開催されました。参加したアスリートたちは、適切なサポート環境さえあれば、障害は単なる個性となり、自己表現・自己実現を妨げるものにはならないことを証明しています。個性に応じた発達を支援する社会になれば、発達障害もまた、障害とは思われなくなるのかもしれません。

 

 

 

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第九回

〈悩める青年期〉

 

スポーツに音楽に文学、仲間たちとの戯れと友情、異性との出会いや交流、夢に向かって邁進する日々、「青春時代」と呼ばれる思春期・青年期は、ある人にとっては人生におけるもっとも輝かしい時代、思い出の濃縮した時代かもしれません。その一方、ある人にとっては最も悩み多き困難な時代、もう二度と戻りたくない時代かもしれません。小学校高学年から第二次性徴により肉体が変化していくとともに、心にも大きな変化が訪れ、心身は不安定になります。たくさんの葛藤を抱えながら、何とかそれを克服して成人となる人もいれば、この時期の躓きが尾を引いてしまう人もいます。

調査によると、第二次性徴の受け入れについては、男子より女子の方が負担に感じており、殊に陰毛の発達や生理については「嫌だったが仕方ないと思った」という否定的な受け入れ方が多いようです。外見についての悩みが多いのも女子で、「痩せている=きれい」といった風潮からいき過ぎたダイエットに走り、摂食障害に陥って拒食症と過食症を繰り返すというケースもよくあります。

ただ、この時期の身体と心が不安定であることは男女とも同じで、体の成熟に伴って求められる社会の中の「自分」に自信を持てぬまま、アイデンティティの確立に悩むことになります。抽象的な思考能力も発達するため、「第二反抗期」と呼ばれる大人や社会への批判的な態度も見られるようになり、親との関係を拗らせてしまう人も多いでしょう。

親との距離が大きくなる一方で、メインの会話相手である仲間たちとの関係はより親密になります。しかし、学業やスポーツなどの特技、あるいは容姿で、評価を得られる者とそうでない者が同一の空間で共存する以上、能力や運の格差が意識され、中高生は競争や対立に追い込まれます。学校内カースト、妬みや嫉みや蔑みから、イジメが醸成されることもあります。現代の若者には、そんな人間関係の疲れからか、相手に深入りせず、相手にも深入りさせない関係を好む傾向があるとも言われています。

不登校や引きこもりは、そうした現代の若者の傷付きたくない心理の反映という面もありますが、必ずしもそれだけでは片づけられない、本人にも理由の説明できない現象であるケースも多いようです。その状態に対して強引な対応をすると、家庭内暴力や自傷行為に至り、事態が悪化することもあります。様々な専門窓口に相談することも必要です。大切なのは、根拠薄き自信による選択と決断で一歩踏み出し、失敗してもまたチャレンジできる環境が与えられていることです。

 

 

 

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第十回

キャリアと子育て

 

多くの人がより長い歳月を費やすのは大人になってからの時間です。発達と言うと成人に達するまでのことという印象を持つ人もいるかもしれません。しかし、青年期を経て肉体的な発達が終わっても、人間の精神的な発達は続きます。様々な技能の熟練度も経験に応じて上がり続けていきます。

学校を卒業して社会人となる成人期、私たちは一日の大半を仕事をして過ごすようになります。そして、単に生計を立てること以上のものを仕事に求め、自分のやりたいことを実現し、自分らしい生き方を創造していこうとします。仕事を通した能力や知識、行動様式などの発達は「キャリア発達」と呼ばれ、夢を求めて仕事に必要な能力を考える「成長期」、経験や他者からの情報を通して志望の職業を探し、現実的に自分に適した職業を選ぶ「探索期」、それが本当に自分に合った職業か検証しながら、地位を固めようとする「確率期」、その地位が安定する「維持期」、仕事から身を引いていく「下降期」という、五つに分類されます。年代によって働くことに対する捉え方は、自分の能力を活用して人間的に成長しようとする前期から、安定を求めようとする後期へと変化していくのです。

人間の発達を八つの段階に分けて説明した心理学者エリクソンも、二十代から四十代を成人前期、四十代から六十代を成人後期と位置づけ、それぞれの時期の発達課題として、「親密性」と「世代性」を提示しました。

「親密性」とは、異性に対して身体的・知的・情緒的に接近する気持ちで、自分の気持ちを相手に開示することを意味します。ただし、男女がすぐに親密性を確立するのではなく、子供の誕生により両者の関係は強まると言われています。未婚化・晩婚化が進む現代は、こうした発達課題の達成が先延ばしされることが懸念されています。

「世代性」とは、次世代を育てようとする気持ちです。母親はお腹の胎動を感じて子どもの存在を「かわいい」と思い、父親も妻のお腹の変化を見るうちにその存在を認識していきます。更に出産後は赤ちゃんと両親が相互に働きかけることで愛着が形成され、子を慈しむ気持ちが高まります。そして、儘ならないことの多い子育てが、親を大人として成長・発達させていくのです。

しかし、「世代性」は我が子に限らず、仕事の後輩など社会の様々な次世代に対する指導や援助に向かう気持ちでもあります。子育てに携わる機会を持てなくても、「親密性」や「世代性」を育むことは出来ると言えるでしょう。

 

 

 

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 第十一回

人生の正午から

精神分析学者ユングは、人生の折り返し地点と言える四十代から五十代の中年期を「人生の正午」と呼びました。働き盛りの労働者であり、地域社会でも中心を担うべき年代ですが、内面的に危うさをはらむ時期でもあります。

危うさの一つとして現れるのが、心身の不調です。多くの人が体力に不安を感じ、特に女性は身体のバランスが崩れやすい更年期に、夏でもないのに汗が止まらない、手足が冷えて寝付けない、動悸がする、などといった症状に見舞われます。男性でもホルモンバランスの変化によって、疲労感や倦怠感、不眠、肩こり、気力の衰え、集中力の低下、イライラ、抑うつなど、更年期障害患者となる人が日本には数百万人いると言われています。

さらに、子供の親離れによって母親の役割を失った女性が、空虚感、無力感、抑うつ感を覚える「空の巣症候群」に陥ったり、職場での重責やリストラ、倒産などが重なった男性が、精神的負担により「うつ病」を患ったりと、アイデンティティ崩壊が引き起こす中年期クライシスもあります。

記憶力や体力の衰えを経験する中で、自分の人生の残り時間が少なくなってきていることを自覚する中年期には、加齢とともに直面する「喪失」と上手に折り合いをつけながら生活していく必要があります。

ヘックハウゼンという発達心理学者は、人は誰しも無意識に成長と喪失をコントロールしていると言います。それには一次的コントロールと二次的コントロールがあり、前者は自分のニーズに合わせて周囲の環境を変更しようと直接働きかけることで、後者は個人が失敗に対処するために、自分の目標や願望の方を調整しようとすることです。一次的コントロールは全ての年齢で用いる方法ですが、中年期では特に二次的コントロールを用いる場合が多くなるそうです。たとえば、若い頃にやっていたジョギングをウォーキングに変えて運動を続けていくなどということが挙げられますが、これから訪れる老年期を前にして、一次的、二次的コントロールを上手に使い分けられることが、自分にとって最適な後半生を送るための鍵となるでしょう。

六十代以降になれば、健康状態はもっと悪化しやすくなり、定年退職によって経済状況も大きく変化します。それまでの地位や人間関係が失われていく状況でも豊かに生きていくには、その前に準備をしておく必要があるようです。

 

 

 

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 第十二回

最期の発達課題

 

「死にとうない」

これは、「一休さん」こと一休宗純が八十七年の生涯最期に遺した言葉だと伝えられています。早くも二十代で「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と人生の無常を詠んで、カラスの鳴き声を聞いて悟りを開いたという一休さんは、形式化した戒律の権威を否定し、悟りを開いた時にもらう印可状を破り捨て、三十代で寺を抜け出て庶民の中で説法し、髪はボウボウ、髭もボウボウ、服はボロボロ、酒を飲み、肉食をし、七十歳を過ぎて五十も歳下の盲目の美女を恋人にしたという、甚だ豪快な破戒僧として有名です。そんな悟り切ったような怪僧でも、死の間際には「死にたくない」と呟きました。

人は誰でも年老いて、体が朽ちて死を迎えます。発達心理学者エリクソンは、人生最後の発達課題として「自我の統合、或いは絶望」を提示しました。高齢期に人生を振り返り、良いことも悪いことも含めて自分の歩みを受け入れるか、人生を後悔して絶望の気持ちを抱くか、最期の発達次第でやがて来る死の受け入れ方が変わるのです。

精神科医だったエリザベス・キューブラー・ロスは、人がどう死を受け入れるかについて、五つのプロセスを提唱しました。まず、自分が死ぬなんて嘘だと疑う段階「否定」。次に、なぜ自分が死なねばならないのかと周囲や神に憤る段階「怒り」。それから、なんとか死なずに済むようにと何かにすがり祈る段階「取引」。やがて、口数が減って気分が落ち込み何も出来なくなる段階「抑鬱」。最後に、運命と向かい合って死を受け入れる段階「受容」に至ります。
 これは老年に限らず、青年期以降に死を突きつけられた人全てに訪れるプロセスですが、徐々に死が近づく老年期の場合、その間に幸せや生きがいを見出すなら、最期の発達課題「自我の統合」を達成し、「絶望」には陥らないで済みそうです。友や仲間がいる人、趣味のある人、健康状態の良い人は、生きがいを感じやすく、それは生活習慣を良好に保ち、アルツハイマー型や脳血管性の認知症を予防することにもつながるようです。また、老人が自分の生涯を他者に語ることも、人生に新たな意義を発見させ、死への恐怖を薄れさせる効果があると知られています。
 さて、「死にとうない」と言って死んだ一休さん、困った時に読みなさいと弟子たちへ手紙を遺しました。そこには、

「大丈夫。心配するな、何とかなる」

とだけ書かれていました。別に、絶望していたわけでもないようです。