2023年度特別コラム

言葉と心と世界

 

 

 

 筑摩書房 ことばの発達の謎を解く / 今井 むつみ 著

  「言葉の発達の謎を解く」 今井むつみ著

 

第一回

〈赤ちゃんの母語習得

 

あなたがどこか言葉の分からない外国の山へ行ったとします。現地の人がガイドをしてくれるのですが、その言葉は全く分かりません。野を散策していたら、ウサギが飛び跳ねていました。ガイドの人がそれを指さして「ガヴァガイ」と呼びました。さて、「ガヴァガイ」とは何でしょう。あなたはまず、「ウサギ」のことだろう、と思うかもしれません。でも、「動物」のことかもしれないぞ、とも思え、「耳」のことかな、「飛び跳ねること」かもしれない、とも思えてきて、考えているうちに何が「ガヴァガイ」なのか分からなくなります。

これは、哲学者クワインの提唱した「ガヴァガイ問題」というもので、ある言語が指示する対象が何なのか、別の言語へ明確に翻訳することが不可能であることを指摘しています。外国人に限らず、赤ちゃんが母語を習得する時も、大人にとっては簡単なこと、「これがパパ、これがママ」といったことで、「パパ」や「ママ」が何なのか、その概念を特定するのは難しいことなのです。

発達心理学の研究者、今井むつみ氏は著作の中で、赤ちゃんに単身赴任中のお父さんの顔を覚えてもらおうとした家族が、お父さんの写真を見せて「パパ」と教えたら、その赤ちゃんは写真のことをみんな「パパ」と言い出した事例を挙げています。

しかし、今井氏によると、赤ちゃんも二歳くらいになれば、「ガヴァガイ問題」を軽くクリアして、新しい言葉をどんどん覚えていくようになるそうです。ウサギをさして「ガヴァガイ」と言われても、あれこれ逡巡することなくその動物の名前だと理解するのです。

二歳の子に、名前の知らない動物のぬいぐるみを見せて「ネケ」と教えます。そして、形も色も同じ別のぬいぐるみ@と、形は同じでも色や大きさの違うぬいぐるみA、別の動物のぬいぐるみB、動物以外のぬいぐるみC、という四つの中から「ネケ」を選ぶように指示すると、きちんと@とAを選び取るそうです。もしBまで選んでいたら「ネケ」を「動物」と捉えたことになりますが、二歳の子は対象の「形」に注目して、「同じ種類のもの」として捉えるのです。さらに、ジェルのような不定形の物質を見せて「ルチ」と教え、そのジェルと粘土でそれぞれ同じ形の物体を作り、どっちが「ルチ」と尋ねると、ジェルで作った物体を選ぶようです。

「同じもの」と「違うもの」を言葉によって識別することは、人間の文化、社会、そして世界の基礎であり、科学的思考の基本ですが、二歳の頃からそれが出来るのは不思議なことです。

 

 

 

 『教養としての上級語彙 (新潮選書)』(宮崎哲弥)の感想(11レビュー) - ブクログ

 「教養としての上級語彙」 宮崎哲弥著

 

〈大人の上級語彙

 

認知科学の研究者、今井むつみ氏は、著書『言葉の発達の謎を解く』の中で、赤ちゃんや幼児が母語を習得していく過程を、「発見」「創造」「修正」という流れで解説しています。

「発見」とは、「〜ハ」とか「〜スル」とか「〜ダ」という音声を何度も聞くことで、そこには共通する言葉の切れ目があると思うこと、或いは、大人が指さして「ミズ」とか「ウサギ」とか呼ぶのを聞き、透明な液体や耳の長い生き物は、それ以外のものと分けられるのだと「思いこむ」ことです。それは、「同じもの」と「同じでないもの」を分ける[システム]の発見でもあります。 

「創造」とは、音声から「ポン」とか「ガチャガチャ」とか「コンコン」などのオノマトペを作ったり、それを「〜スル」と結び付けて「ポンする」などの表現を作ったりして、伝えたいことを言い表すことです。「大きくない」「おいしくない」という言葉を知っている子が、「好きくない」「きれいくない」などと言ったり、「足でボールを投げる」「歯で唇を踏む」という表現をしたりするのは創造の結果として生まれた誤用表現です。

「修正」とは、こうした言語ルールの誤用を、新しい言葉の発見とともに修正し、大人たちのシステムに近づきつつ、言葉の意味を深めていくことです。

こうした過程を通して子供たちは、驚くべきスピードで母語を習得していくわけですが、学校に進学し、勉強して覚えていくという段になってくると、言葉の習得は個人差が大きくなっていきます。特に、中学・高校・大学などで学ぶ学術用語・専門用語となると、大人でも使えるかどうか怪しくなります。

評論家の宮崎哲弥氏は、語彙の貧しさによって人生が貧しくならぬよう、若い頃から単語帳を作り続けてきたそうです。そうやって蓄えてきた語彙の中でも、やや難しい表現を「上級語彙」と呼び、その中から選り抜いた五百字を、近著「教養としての上級語彙」において紹介しています。

言語とは、既に存在する事象に付けられた名称ではなく、真っ白い世界を人が住みよいものへ変えるための節目として、染め分けに使われた色のようなものだと宮ア氏は言います。同じ「赤」を何通りにも識別できた平安貴族の色彩感覚が豊かであったように、より多くの語彙が使えるようになれば、生活も多様で豊かなものになるのです。

「邂逅」「奇遇」「際会」「逢着」、同じ偶然の出会いにも、いろいろな表現があるものです。上級語彙にめぐり合うことで、世界の意味は深まるでしょう。

 

 

 

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 「言語学の教室」 西村義樹、野矢茂樹 著

 

〈認知言語学

 

人類はその誕生以来ずっと、自分たちを取り巻く世界の森羅万象に名前を付け続けることで、この世界を把握してきました。しかも、名詞だけでなく動詞や形容詞などの語彙を繋げていく一定のルールに縛られることで、語彙の数に制限されない無限の表現を可能とする能力を持ち、無数の文を作り出してきました。では、語順や語形、接続方法などのルール《文法》は、どうやって生まれてくるのでしょう?

言語学者の西村義樹氏と、哲学者の野矢茂樹氏による対談形式の著書『言語学の教室』は、人間の知覚や記憶、感情などが文法を形成していくと考える認知言語学の理論を、哲学的考察を交えながら紹介しています。

「太郎は花子に本を読ませた。」

日本語文法では、こうした表現を使役構文と言い、「読ませた」の中にある使役の助動詞「せる」がこの表現を成立させています。しかし、言語学では、

「太郎が窓を開けた」

という表現も使役構文として考えられています。初めの文は、「太郎」が「花子」に働きかけて「読む」という結果を生じていますが、後の文でも「太郎」が「窓」に働きかけて「開く」という結果を生じており、同じように原因と結果の関係が表現されているため、どちらも使役構文と見なされるのです。

では、同じ使役構文なのに、なぜ前者には「せる」が付き、後者にはついていないのでしょう。そこには「させられる側」の「花子」と「窓」に、主体的な意識が有るか無いかが関わっています。「太郎」が命じたとしても「花子」の意識が無ければ「読む」という結果は生まれませんが、「窓」に「開こう」という意識が無くても、「太郎」の意識だけで「開く」という結果は生まれます。「させられる側」の意識の有無が、日本語の文法形式を決めているのです。一方で英語は、「開ける」「開く」、「沸かす」「沸く」、「壊す」「壊れる」という他動詞と自動詞のペアを、それぞれ「open」「boil」「break」と一語で表します。人々の置かれた文化や歴史により、文法の有り様は異なっていくようです。

ところで、単語や文はそれぞれ典型的な意味とそこから派生する周辺的な意味により《カテゴリー》を形成していますが、文法も周辺的な表現は典型的な表現との類似性《アナロジー》から、隠喩《メタファー》や換喩《メトニミー》によって創出されます。「彼は台風で庭の花を死なせてしまった」といった、典型的な使役構文から離れた表現を作るように、私たちは状況や事象を「しっくりとくる」表現で名付けようと、日々言葉を創造し、言語を多義化してしまうのです。

 

 

 

 『レトリック感覚』(佐藤 信夫):講談社学術文庫|講談社BOOK倶楽部

 「レトリック感覚」 佐藤信夫 著

 

第四回

〈言語はレトリック〉

 

言葉巧みな効果的表現を使って人を魅了したり、説得したり、論破したりする技術「レトリック」は、《弁論術》や《修辞学》といった学問として、ヨーロッパでは長く専門的に研究されてきました。しかし、その一方で、表面だけの美辞麗句、軽薄な虚偽の表現と、否定的に捉えられることもよくあります。

佐藤信夫著の『レトリック感覚』は、《説得する表現の技術》、《芸術的表現の技術》として考えられてきた「レトリック」を、《発見的認識の造形》という新たな視点で捉え直し、「直喩」、「隠喩」、「換喩」、「提喩」、「誇張法」、「列所法」、「緩叙法」という七種の修辞法を解説しながら、読者にその本質的な意義を明らかにしてくれます。

「直喩」と言えば「〜のように」「〜みたいな」という言葉が付いた比喩で、「隠喩」と言えばそうした言葉が付かない比喩だと、国語の授業では習うかもしれません。でも、この本ではそれを否定します。どちらも類似性に基づいた比喩表現である点は同じですが、「直喩」とは、「若い女の人が、鳥が飛び立つ一瞬前のような感じで立って私を見ていた」というように、読者が今まで聞いたことのない類似性を提案して想像させる比喩であり、「隠喩」とは、「思い知らせてやろう、君の白鳥がただの烏だったと」のように、「白鳥=美しい人」と「烏=醜い人」という、読者に了解済みの類似性を使った比喩であると言います。

類似性を使った言い変え「隠喩」に対して、「換喩」というのは、表現する対象に関係し、その特徴を表すもので対象を言い換える表現です。ある女の子を名前で呼ぶのではなく、その特徴的な隣接物「赤ずきん」で呼び表したり、一国の政府をその建物「ホワイトハウス」で表現したりするのがその例です。

「換喩」が、対象に関係する別の存在で言い換えるのに対し、「提喩」は対象の上位概念や下位概念に変えて提示する表現です。「雪」のことを「白いものが降る」と言ったり、「食料」のことを「人はパンのみにて生きるにあらず」と言ったりするのがその例です。

これらのレトリックは、対象物や情景を見たことのない者達に、その姿をリアルに伝えるため、《発見的認識》のために《造形》されたものですが、やがて定着し、慣用句や普通の単語に転じます。宗教から科学まで、私達の使用する言葉の起源を辿ってみると、そのほとんどは虚偽・レトリックとして誕生したものだと気づくかもしれません。

 

 

 

 テキスト

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 レトリック認識」 佐藤信夫 著

 

 第五回

〈認識のための表現〉

 

何かを誰かに伝えたい時、伝えなければならない時、自分の中の辞書からそれにふさわしい表現を探し、でも、それを表す言葉がなかなか見つからない、ということはしばしば起こるものです。それは、自分の語彙の貧弱ゆえに生じる事態であるかもしれないし、そもそも日本語の日常言語の中にまだ該当する言い回しが無いせいかもしれません。そんな時に私たちは、自分が持っている語彙を組み合わせ、相手に理解できそうなメタファーなどレトリックを使って表現しようと試みます。

それでも、やはり言葉が出てこなければ、会話の場合なら「・・・」と、言い淀んでしまうことになります。LINEやチャットの時は、文字通り「・・・」と打ち込むことも多々あります。こうした「・・・」にも文学上のレトリック名が付けられており、「黙説」と呼ばれています。小説中の人物が、私達と同様に言い淀んで「・・・」となっている様子を表す技法でもありますが、源氏物語四十一帖「雲隠」のように、敢えて本文を何も書かず、読者の想像に委ねるレトリックのことでもあります。

何も語れない、或いは語らない「黙説」に対して、「ああでもない、こうでもない、そうでもない、」と過剰に言葉を並び立てる「ためらい」というのもレトリックの一つに数えられます。それは買いたい服が見つからずに試着室で次から次へと取り換えながら悩む行為に似ています。しかしそれは、「自分の伝えたいこと」に該当する表現が見つからないという以前に、そもそも「伝えたいこと」が何なのか自分に分かっていない状態だとも言えます。私たちは、言葉による表現で形が定められるまで、何かを認識することが出来ない動物なのです。

言語哲学者の佐藤信夫は、「レトリック表現」の続編「レトリック認識」で、私達の認識を生み出すために言語表現がある、或いは、事実に対する認識の仕方を表すのが言葉だと指摘しました。

「転喩」、「対比」、「対義結合」や「逆説」、「諷喩」、「反語」、「暗示引用」などのレトリックは、近代の合理主義・科学主義的な叙述の思想に嫌われ、格好つけて過剰に無用な飾りを付ける技法と考えられるようになりました。しかし、レトリックを使わない本来的・標準的な文法に基づく記述と考えられるものも、法的事実、科学的事実を認識するための一つのレトリックに過ぎません。

文法という言葉の制度は、不完全な人間の言語で世界を語る工夫の積み重ねが、生成してきた技法なのです。

 

 

 

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 『ヒトの言葉 機械の言葉』 川添愛 著

 

 第六回

AIの言葉の仕組み〉

 

最近、AIの発展を身近で感じることが多くなってきたのではないでしょうか。プログラミングができなくてもプロンプトという普通の言葉で適切な指示が出せれば、数秒で希望の画像や音楽を作ってくれる生成AIが今では無料で誰にでも使えます。また、自然言語処理をするChatGPTは、SF作品に描かれているようなコンピュータとの自然な会話を体感させてくれます。

AIと日常的に自然なコミュニケーションをとれる日が訪れたようにも感じますが、一方では「AIに仕事を奪われる」、「AIが人間を超えてしまう」、といった不安の声も聞かれます。そんな最近の状況に対し、言語学者の川添愛氏は著書「ヒトの言葉 機械の言葉」の中で、AIが言葉を紡ぐ方法と、人間の言葉の不思議を、今一度見つめ直して考えてみることを提案しています。

AIは、人間が提供する大量の画像や音声のデータを、ピクセルの色コードや量子化された音波情報として二進法で数値化し、その数の並び・組み合わせの統計データから関数を割り出して、画像や音楽を生成します。

言葉についても、大量の文章データから、任意の単語の次に続く確率の高い単語を並べて生成していくだけであるため、人間の話の意図や自分の語る内容を理解していると言えるのか、という点については疑問が生じてきます。

AI研究の先駆者アラン・チューリングは、機械の知性に関して、チューリング・テストと言う判定方法を提案しました。ある部屋の中に機械と人間が待機していて、部屋の外にいる人間が中の者と文字で会話をします。外の人間が、自分が会話している相手が人間なのか機械なのか区別できなくなった時、機械の仕組みがどんなものであれ、その機械は知性を持っていると言い得る、というのがその判定方法です。

こうした判定方法には納得できない人もいるでしょう。でも、もしあなたと話している誰かが、AIと同じように確率的に妥当な単語の並びで言葉を連ねるだけのアンドロイドだったとして、その言葉が不自然でなければ、相手の言葉が持つ論理性や情熱に、人としての疑念は持てないかもしれません。

一つ言えることは、AIは人間から提供された言葉のデータを学習しなければ言葉を使えないということです。それは、私たちが生きていくためのコミュニケーションに使う、生きていくための意味が込められた言葉です。まだ、意味の数値化はできていません。

 

 

 

 ベーシック生成文法

 『ベーシック生成文法』 岸本秀樹 著

 

 第七回

〈生成文法仮説〉

 

「人間はなぜ言語を獲得できるのか」ということについて考えることは、人間と他の動物の違いを科学的に明確にしようとする試みです。人間とチンパンジーは遺伝子で見ると一・二三%しか違いが無く、一・五%違うウマとシマウマよりも近しい生き物だとされています。でも、チンパンジーに人間の言語を覚えさせる試みは成功していません。

チンパンジーに限らず、他の動物や鳥たちもコミュニケーションは取り合いますし、そこには口から出る鳴き声や囀りが使われているので、言葉を持たないとは言えないかもしれません。しかし、人間の言語には、他の動物には無い特質があります。それが、文法です。伝えたい内容ごとに異なるフレーズを用いていると、表現できる内容は単語の数で制限されますが、文法があれば、単語を無限に組み合わせることができ、何通りもの表現が可能になるのです。

この、人間言語の特質である文法が、生得的に脳内に設定されているため、人間の幼児は言葉を使えるようになるのだと唱えて、言語学に革命をもたらした人物が、ノーム・チョムスキーです。

チョムスキーは、それ以前の言語学が単語同士の体系などについて研究し、言語獲得の仕組みはブラックボックスと見なして取り扱ってこなかった問題に光を当てたことで、言語学に限らず、脳科学、認知科学、発達心理学などの発展にも影響を及ぼし、二十世紀最大の言語学者と語られています。

その理論、生成文法とは、幼児が生まれ持った普遍文法と呼ばれる原理の知識に従って、周囲で話される言語を習得していくというものです。それぞれの言語は当然ながら文法も語彙も違うわけですが、そうした違いは関数の変数として捉えられます。世界には六千以上の言語がありますが、全ての言語が共通の定数を持つ関数のようなものだとしたら、子供たちはその定数を基準にし、具体的な英語や日本語に接することで変数を認識し、それに応じてスイッチを切っていきます。例えば英語と日本語では、動詞と目的語の順や、前置詞や助詞など付属語の前後の位置が逆ですが、文を構成する句構造は共通しています。そこで、幼児は耳にした実際の言語〈変数〉に合わせてスイッチを切り替えながら母語を習得し、やがては原理に従って自らも文を作り出せるようになるというわけです。

しかし、この理論は未開社会ピダハンなどで、多くの反例が示されており、普遍文法の実在は疑われてもいます。

 

 

 

 ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

 「ピダハン」 ダニエル・L・エヴェレット 著

 

 第八回

〈文化と言語〉

 

  人間の赤ちゃんは、他の動物と異なり、生まれながらに文法の知識を持っているため、母親などからごく限られた母語の知識しか与えられなくても、無限に文を作り出せるようになる。〉

現代最高の言語学者と考えられているノーム・チョムスキーが唱えたこの【生成文法仮説】に基づき、言語学は、世界の様々な異なる言語を生み出す共通の原理・普遍文法を探求してきました。そして、句構造など、人間の言語に共有される文法のルールが次第に明らかにされ、言語学だけでなく、現代の脳科学や認知科学の発展にも大きく寄与することになります。

しかし、ブラジルのアマゾンに住む少数民族ピダハンについて三十年に及ぶフィールドワークを行ったダニエル・L・エヴェレットにより、この仮説の根本を揺るがす言語の実例があることが言語学の世界に示されます。

ピダハンは、アマゾンの支流マイシ川沿いに数個の村を持つ四百人以下の少数民族で、現代の文明社会とは大きく異なる文化を形成しています。彼らの言語には数を表す単語はなく、右や左を表す言葉の代わりに川の上流側と下流側で向きを伝えあいます。色を表す言葉もなく、色はオレンジ色のような「〜の色」といった具体物で表します。身分制もなく、宗教的な儀式もなく、世界についての創世神話もなく、未来についての概念もありません。見たことのないものは一切信じず、直接体験されたものだけが彼らの認める現実です。医薬品やボートなど、外来の技術を利用はしますが、自らそれを作り出すことを学ぶ気はなく、自分たちの文化を変えようとはしません。食料の備蓄もせず、好きな時に狩猟に行き、必要な分だけ捕って食べ、取れなければ食べずに過ごし、空腹でも踊って夜を明かします。病気や身内の死を嘆くことはあっても、未来に対して不安を持ったり、苦しんだりはしません。

その言語には、生成文法が人間言語に不可欠な要素とした複文の句構造がなく、名詞と動詞が一つずつの単文しかありません。しかし、直接体験の豊かな物語を語ることはでき、彼らにしか見えない森の精霊たちの話をします。子音の区別を必要としない鼻歌や叫び声で語り合うこともできます。

その言語は、生活環境と文化という偶然性から進化・発展してきたものであり、文化から自立した普遍文法から言語が生成するというチョムスキーの仮説は、ここに覆されたのでした。

 

 

 

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  「言語の本質」 今井むつみ、秋田喜美 共著

 

 第九回

〈オノマトペと音象徴〉

 

「パンパン」「バンバン」「コロコロ」「ゴロゴ

ロ」、赤ちゃんが初めに覚える言葉として、世界中の言語に共通していると言われるものは、このようなオノマトペであるようです。オノマトペは、「コンコン」や「パチパチ」など主に擬音語のことを指しますが、日本語では「グルグル」や「ユラユラ」など様態を表す擬態語や、「ドキドキ」や「ワクワク」など感情を表す擬情語も含まれます。

これらは、実際に耳で聞いた音声や、視覚や触覚で感じた様態、心で生じる感情との類似から生まれてきた言葉で、語彙の全く無い赤ちゃんでも、自分の体で指示対象との同一性が類推できるという特質を持っています。 

しかし、音声を表す擬音語ならまだしも、音を持たない様態や感情が、どうして赤ちゃんにも類推できるのでしょう?日本語には英語の「L」と「R」や、「B」と「V」の区別がないように、言語によって発声することのできる音韻は異なります。それでも、呼気圧の違いにより、「P、T、K、S、B、D、G、Z」は阻害音といって角張った固い響きを、「M、N、Y、R、W」は共鳴音といって丸っこい柔らかい響きをイメージさせることが、世界中の言語で確認されています。母音の「ア」と「イ」も、後者より前者の方が口の開き方が大きいため、「カンカン」と「キンキン」のように、前者が大きい感じ、後者が鋭い感じを人間にもたらすようです。こうした、発声する音自体の持つイメージを音象徴と言い、赤ちゃんでも体で感じ取れるため、擬態語や擬情語の意味が彼らにも類推できるのです。

発達心理学者の今井むつみ氏と言語学者の秋田喜美氏の共著「言語の本質」は、言語の起源はオノマトペであり、その語形変化から名詞、動詞、形容詞、副詞が派生し、やがて音と意味が切り離されていくことで、言語の体系が進化してきたのであろうと述べています。

紐の先に錘を垂らしてその紐をグルグル回すと、月が地球の周りを回り続ける理由が説明できます。そのように、何か抽象的なことを理解しようとする時、私たちはそれと構造の類似した具体的な喩えを利用します。こうした、体感できる身近なモノとの類似性から、体感できないモノの性質を類推することを「アブダクション推論」と言います。これは、間違っている可能性も充分にある推論ですが、人間が科学的な理論を発見する時にも、幼児が言語を習得する時にも、この、仮説を立てる能力が不可欠です。

言語の習得もその進化も、体感できる具体から抽象への仮説の類推と、その修正の繰り返しで成立しているようです。

 

 

 

 「言語の起源 人類の最も偉大な発明」レビュー〜文化の観点から考える汎用型AI実現の難しさ | 超個人的美学2〜このブログは「超個人的美学と ...

 「言語の起源」 ダニエル・L・エヴェレット 著

 

 第十回

言語の遺伝子

 

  「現生人類ホモ・サピエンスの言語はどのようにして生まれたのか」について、現代言語学の主流派は、約七万年前のアフリカに棲息していたサピエンス種の中で遺伝的突然変異が起き、文法を持った言語を話す最初の人類が誕生したのだと考えています。

この言語学的な意味での最初の人類「言語学的アダム」は、現代の我々と同様に複雑な文法として、複文が話せたと考えられます。複文とは、一文の中に主節と従属節があり、メインの主語と述語がサブの主語と述語を従えている文のことを言います。例えば、「Aさんは、Bさんはきっと来ると、考えている。」のように、入れ子構造になっているわけですが、これは更に、「Aさんは、Bさんはきっと来ると、考えていると、Cさんは推測している。」のように入れ子構造をもう一つ増やすこともできます。私たちの言語は、ロシアの玩具マトリョーシカのように、入れ子構造を無限に増やすことができます。

そのような言語を使うことができる遺伝子を、現生人類は共有しており、他の動物にはそれが無いというのが、主流派言語学の考え方です。この考え方の発案者が、現代最高の言語学者と言われるチョムスキーであり、彼はこうした入れ子構造の複文を生成する文法【普遍文法UG】が人間の言語を特別なものとし、複雑で精緻な論理的思考も可能にしているのだと言います。

チョムスキーのように、人間の言語と思考の特別性を信頼する考え方は一般にデカルト主義と言われます。近代合理主義の父ルネ・デカルトは、先天的に備わった理性こそが人間に真理を理解・認識させる特別な能力なのだと主張しました。それは、古代ギリシャの哲学者プラトン以来の宗教的信念プラトニズムに由来していますが、欧米を中心に近代的な学校教育を受けた人なら誰でも、無意識に持っている常識的な信念だと言えます。

しかし、アマゾンの先住民族「ピダハン」の言語研究で著名になったダニエル・L・エヴェレットは、ピダハン語には複文構造が無いことを指摘し、チョムスキーを批判しました。そして、その後の著書「言語の起源」では、突然変異の遺伝子を持った言語学的アダムなど存在せず、現生人類に先行したホモ・エレクトゥス以来の、集団的会話の蓄積による文化的漸進的な小進化が、人類の複雑な言語を形成してきたと主張します。

会話中の、意味不確定な言葉の集団的相互補足で文法は生成するのです。

 

 

 

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 「動物たちは何をしゃべっているのか?」 

山極寿一 鈴木俊貴 共著

 

 第十一回

動物たちの言語

 

言語能力は有史以来、人間と他の動物たちを分ける境界として、取り上げられてきました。しかし、現代では研究が進み、ミツバチのダンスなど、動物たちも様々なコミュニケーションの手段を持っていることが知られています。中には、サバンナモンキーのように、天敵が来たと仲間に嘘をついて、餌を独り占めしようとする動物までいます。

そんな動物たちの言語に関する研究において近年特に注目されているのが、鈴木俊貴氏のシジュウカラの言葉についての報告で、シジュウカラが単語だけでなく、文法を備えた文を作っていることを証明した鈴木氏の著述は、中学一年生の国語の教科書にも取り上げられています。彼は何年にもわたって森の中でシジュウカラの群れを観察し、この鳥が鳴き声を使い分けて、「ヘビだ!」「タカだ!」「カラスだ!」と仲間たちにそれぞれ異なる警戒態勢を取らせること、その鳴き声が人間と同様にイメージを喚起する単語になっていること、そして、語順を変えると意味が通じなくなる文法に則って文を作っていることを発見しました。単語レベルでは、他の動物でも鳴き声が単なる感情の発露ではなく、意味を伝えるコミュニケーション手段になっていることは知られていましたが、長らく人間のみが持っていると言語学の世界で信じられてきた文法の生成能力が、鳥のように脳の小さな動物にもあることが証明されたことは驚きです。

『動物たちは何をしゃべっているのか?』は、類人猿の研究者として著名な山極寿一氏と鈴木氏の対談書で、動物たちの多様で豊かな言語能力や、もはや絶対的とは言えなくなった人間の言語と動物の言語の相対的な差異、そして、言語の起源についての両者の考察が書かれています。

鈴木氏は、動物の言語とは、生きていくための環境への適応だと言います。鳥籠で飼われるシジュウカラは生存の危険もなく、共に命を守り合う仲間の群れからも離されているため、その単語はごく少ないものになるそうです。しかし、見晴らしの悪い森に棲む鳥たちは、天敵からの脅威の下、生存に必要な数だけ単語を生み、言葉の領域を展開して、互いに注意を喚起し合っているのです。

環境の負荷と、それに対する協力が、群れの中に言語を生成させるようです。

 

 

 

 ¿Qué sabes sobre el pesebre?: November 2006

 「聖書・創世記」 善悪の知恵の実の話より

 

 第十二回

共感・論理・原罪

 

聖書の創世記には、「善悪の知恵の実」を食べて原罪を生み出した人類の祖が登場します。現代言語学の主流の考え方でも、今から七万年ほど前に、文法を生成できる遺伝子を持った最初の人類アダムとイヴが現れ、自然淘汰によりその遺伝子を持ったサピエンスだけが生き残った、ということになっています。しかし現在は、言語学者チョムスキーに由来するこの生成文法理論の考えを否定し、脳の中に言語に特化した部位などは無く、言語の遺伝子も、言語学上のアダムとイヴも存在しない、と考える非主流派の勢力が強くなってきています。

『ピダハン』の著者エヴェレットは、かつては原人と呼ばれていたホモ・エレクトスの段階で、すでに言語は使われていただろうと主張しています。現生人類とは口や顎の骨格が異なるため、同様の器用さで母音や子音を操作することはできなかったとしても、初歩的な打製石器と火を使用していたエレクトスには文化があり、コミュニケーション手段としての発声=言語はあったというわけです。

また、動物の言語研究も進み、鳥たちの囀りは単語と文法を持った言語であることが、日本の研究者、鈴木俊貴氏によって証明されています。ただ、人間の言語と動物たちの言語では大きな違いがあると、鈴木氏は言います。それは、「今、ここに無いもの」を伝え合うことです。動物たちの会話は、目の前にある事物について、その対象を知っている者同士の報告や指示に限定されていますが、人間の言葉は、過去や未来、空間的に遠く離れて知覚したことのない話についても、アナロジーを使って叙述し、伝え合うことが可能です。実際、私たちが言葉として持っている知識の大半は、自分では実在を確認したことのないものばかりです。

鈴木氏と対談した類人猿研究者、山際寿一氏は、身体感覚と感情の共有が動物と人間の言語に共通する役割で、そこには美徳の共感も含まれると言います。そして、共感に加えて、出来事を物語化する能力が人間言語の特性で、物語ることから論理が生まれ、道徳やルールも生まれてきたのだろうと言います。

ところで、論理化した人間言語の世界では、論理的に正しければ美徳に反した「してはいけない事」をも「していい事」に出来る善悪の知恵が生じます。言語による原罪の登場です。