2013年度特別コラム「哲人の記」

 

 

Iイマヌエル・カント

 

 カント

カント

理性とは、どこまで正しいものだろう。理屈は通っていても、おかしな論理はある。白を黒にひっくり返す弁護士の詭弁は、大変頼もしいものだが、理に適ってはいても正しいとは感じられない。でも、間違いも指摘できない。

18世紀のヨーロッパ、ドイツ人のイマヌエル・カントは、理性について考えた。理性はどこまで正しく、何のためにあるのか。

彼はまず、正しい認識とは何かを考えた。そして、事物が人間に認識されるのではなく、人間の認識の形式が、事物の有り方を決定していると考えた。知る対象となる事物は、まず視覚や聴覚や臭覚などの感覚としてとらえられるが、私達の裡に生じたものは動物の感性が作り出す映像や音や匂いであって、「物自体」ではない。動物の感性が、事物の有り方=現象を決めているのだ。更に、動物の感性は、空間と時間という形式を持ち、その形式に基づいて事物は感じ取られると言う。空間や時間は動物が事物を感じる形式であり、事物を感じることで、初めて対象と共に我々の前に発生するのである。

しかし、感じるだけでは認識にはならない。感性で受け取られた対象は悟性によって仕分けられ、統合され、「犬」や「犬が走る」といった、物や事として認識される。この仕分けと統合は、「分量」「性質」「様態」「関係」といったカテゴリーに従って行われる。これらのカテゴリーは生まれた時から人間悟性に備わっている先天的な形式で、カントは、感性と悟性の形式に沿って認識される現象だけを、客観的(科学的)実在とした。

だが、人間は、認識した現象を基に、更に悟性カテゴリーの組み合わせを変えて推論する力、理性も持っている。理性の展開する推論は、数学的に確実なものもあるが、感性によっては感知できないものを実在するように見せる詭弁や、パラドックスへ陥る性質もある。推論によって捉えられたものの中には、魂、世界、造物主といった概念もある。これらは感性で感知できない点で、実在とは言えない。だが、カテゴリーに沿ってより根源的なものを求めていけば、必然的に導き出される哲学的理念でもある。実在するとは言えないが、実在しないと決定することもできない。なぜこんな理念が生まれるのか。ここにカントは、理性と哲学の真の目的を見る。

理性と哲学が実証不能な根源的概念を求めてしまう理由。それは、人間が、いかに行動するべきか、いかに生きるべきかを絶えず模索しているからである。理性は、進むべき理想を作って人間の前に示すためにあるのだ。

それに従うか否かは、実践的な意志の問題。

 

 

 

 目次

@ ソクラテス

A プラトン

B アリストテレス

C ゴータマ・シッダールタ

D 孔丘仲尼

E 荘周

F パウロ

G デカルト

H パスカル

I カント

J ヘーゲル

K ニーチェ