2013年度特別コラム「哲人の記」

 

 

Hブレーズ・パスカル

 

 Blaise_Pascal

 

何かを認識することと何かを信頼することは、別のことだ。神についても、その存在を認めることとその存在を信頼することは、別のことである。

神は、科学的には観測できない。その点では、物理的には実在しない正義や愛、あるいは基本的人権や民主主義や平和などと等しく、実在についての科学的根拠はない。人間の人格も、その人の友人や恋人、家族、あるいは敵によって認識のされ方が異なり、科学的には特定できない。だが、科学的に認識できなくても、その人格を信頼することはできる。逆に、認識があっても、信頼がなければ、協力し合う関係は築けない。

17世紀のヨーロッパ。キリスト教によって秩序と文化を育んできたこの地は、コペルニクスやガリレイの登場により近代合理主義が開花し始めていた。その時代に、数学や物理の研究において早熟の天才と言われた哲学者がいた。名前はブレーズ・パスカル。10代で機械式計算器を開発し、幾何学においてはパスカルの定理発見、力学においてもパスカルの原理を発見するなど、30歳までに数学と科学の歴史に名を残す偉業をなした。

その一方で、彼は理性によって神を認識、または否認しようとする当時の合理主義を批判し、敬虔なキリスト教徒として、「キリストの愛」、「神の律法と恩寵」、そしてそれを伝える「聖書」の物語への信頼を表明し、世界で唯一の正しき宗教としてキリスト教を擁護した。

キリスト教の神は、人間に愛の癒しを存在させる存在であり、社会に倫理と法を存在させる存在である。もし、聖書の物語を偽とし、この宗教を偽とするなら、それはヨーロッパの秩序を作った愛の倫理をも偽とすることになる。愛がイエス=キリストを起源とする以上、その物語の権威を信じなければ、愛の倫理と行動が否定される。理性は、世界の中の様々な科学的実在から、世界を存在させる神の実在を推定することはできるが、神の正義や愛が信頼できるものかは示せない。そこに科学的根拠はない。

パスカルは、神の正義と愛を信頼することは、喩えるならギャンブルの「賭け」であると言う。もし正義と愛の神が存在しないのなら、信頼してもしなくても世界と自分には何の危害もない。だが、その神が存在すれば、信頼する者には神の愛と天国が与えられ、信頼しない者には罰と地獄が与えられる。だから、信頼することは、信頼しないことより確率的に優越し、ギャンブルとしても損はない。そう言って彼は、キリスト教信仰を、合理主義者たちの無神論から、擁護しようとした。

人も神も、信頼するとは賭けること。

 

 

 

 目次

@ ソクラテス

A プラトン

B アリストテレス

C ゴータマ・シッダールタ

D 孔丘仲尼

E 荘周

F パウロ

G デカルト

H パスカル

I カント

J ヘーゲル

K ニーチェ