2013年度特別コラム「哲人の記」

 

 

Fパウロ

 

 Paolo-104

 

先哲の深遠な思想や哲学を学び、定められた戒律や法に従って日々精進すれば、シャカの説く仏陀や、孔子の説く君子や、荘子の説く真人など、理想的な精神状態を獲得できるのかもしれない。だが、それは誰にでも到達できる境地ではない。もし、知識・教養・哲学に縁の無い一般民衆など、万人に開かれた精神の幸福な境地があるとしたら、それを手にするか否かは個々人のお気に召すままだ。

古代ユダヤ人は、エジプト王朝の王族だった伝説的預言者モーセの導きで、世界を存在させる存在を神として祭り、殺人の禁止から食事の仕方まで生活の細部にわたる厳格な律法を奉じる宗教を獲得した。大国の侵略や強制移住という過酷な経験を乗り越えることで、その信仰は更に強化され発展した。そして紀元1世紀、ユダヤがローマ帝国の支配下に置かれていた時代、その宗教は、神の祭祀を司る保守的なサドカイ派と、神の律法を重んじる革新的なパリサイ派が対立し、民族の主導権を競っていた。

そんなユダヤ社会で、パウロは生まれた。彼はパリサイ派に属し、律法の知識に長けていた上に、母語であるヘブライ語の他に当時の国際言語であったギリシャ語も話すバイリンガルであり、ローマ市民権も持っていたエリートだった。彼は、ギリシャ的教養と知性にも恵まれていたが、何よりもユダヤの律法を厳格に守ることこそ唯一神の創造した世界で幸福に生きるための、人間が励むべき理想の生き方であると信じていた。

同じ時期、大工を家業とする一人の男が、一団の人々を伴ってユダヤの地を巡り歩き、ユダヤ社会の耳目を引いていた。彼には祭司の資格などなかった。膨大な律法知識がある訳でもなかった。彼にできることと言えば、病人・貧者・障害者・罪人など、社会に捨てられた底辺の人々と交わり、彼らを癒すことだけだった。しかも、「心から癒しを求めている人」しか彼は癒せなかった。強い者、富める者、正しき者は癒せなかった。そして、律法に関する専門的な解説ではなく、譬え話によって神とその愛を信じるように勧めるだけだった。その男イエスが人々に称えられるようになると、祭司や律法学者たちは権威と誇りを傷つけられた。そのため彼は囚われ、神殿と律法を穢した罪で十字架にかけられて死んだ。

イエスの死後、一度はバラバラになった弟子たちが、彼の癒しの業と、神の愛についての説法を継承し、イエスの教団は「復活」した。パウロは、パリサイ派としてその教団を迫害する側にいたが、いかなる迫害を受けても癒しを求める者を癒し、心の救いを求める者を救うことのできるイエスという存在に傾倒し、逆に律法に生きる難しさに疑問を感じて、回心した。そして、イエスこそが神に自分たちを取り次ぎ、その愛に導いてくれるキリスト(救い主)であるというキリスト教の原理を明確にし、その神学の土台を築く。 

ここに、キリスト教が誕生した。

 

 

 

 目次

@ ソクラテス

A プラトン

B アリストテレス

C ゴータマ・シッダールタ

D 孔丘仲尼

E 荘周

F パウロ

G デカルト

H パスカル

I カント

J ヘーゲル

K ニーチェ